地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

5 個人として生きる自由 -2

田舎(前近代的な価値観)と都会(近代的な価値観)の根本的な違いは「自分らしく人間らしい生活の第一条件として挙げること」にある

僕は前記事で、都会の住民が田舎の住民よりも他人に対する配慮が少ない、失礼で無神経だと言おうとしたのではない。
都会の住民は「他人の邪魔をしないこと」を非常に気遣いながら暮らしている。
他人からお節介を焼かれることを嫌い、他人からお節介な人だと思われ疎まれることを恐れ、自分の個人的範疇の外ではよほど大変なことが起きなければ(ささいなことでは)他人に向かって声すら発しないよう気をつけている。
逆に、いざ他人から個人的範疇へ干渉されそうになると、声を荒げ手を上げることも辞さない。
日本の都会は、大人が道端で面識のない子供に声をかけるだけで通報されて然るべき場所になってしまった。
その姿勢の前提にあるのは「人は一人で放っておけば何も問題はない。人間とはその人個人(の頭脳)で必要十分条件を満たしている。だから人が他人に干渉する(される)ことこそ問題である。」という、西洋近代思想が提示した姿勢である。
ベルク氏はその近代的な前提は事実上人間の器質に逆らっているし、僕ら全員がその器質の上で無意識下に実現しようとしている人間としての活動を阻害していると主張しているのである。
人が他人へ発揮しようとする気遣いを「こんなのお節介かも」「もしそうしたければ自分でするだろう」などという自他の常識が阻害して発揮され難くされているのが、日本の都会の現状である。

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個々の事象の是非以前に、すべての事象の前提になっている個人主義人間性の原点に逆らっている。

対して田舎の住民は、伝統的視点を受け継ぎ「人は一人では生きていけない。時には迷惑かけたってかけられたって仕方ない。助け合ってこそ人間である。」という姿勢を、その姿勢を元からもたなかった近代的な都会とは異なり、近代思想からの干渉を退けるという形で保っている。
なお、近代的な視点はマスメディアなどにより常に拡散されているので、その影響力は都市からの物理的な距離では測れない。
また日本には世間の他にも、伝統的な価値観を共有する集団はたくさん残っている。

そして3.11のような大災害が起こった時、日本中でだれもが自ずから絆の重要性を思い出したではないか。
しかし前記事で述べたとおり、僕ら日本人は総じて社会的な事象を風化させやすい。
僕たちは確かに制度において(たとえば東日本大震災を被災者を救援する財源を確保するために設けられた復興特別税を納めて)共同体の絆を実現しようと試みている。
しかしそれを非-被災者人が消極的に受け入れながら震災を風化させているようでは問題解決の態度として弱すぎるし、風土学の視点からみれば納税でもなんでもぞの人が自分から主体的に取り組まない限りはっきり言って「意味がない」。
つまり、たとえば「応援者として〇〇しよう」と思ってすれば、前述のとおりそれは本人が「東北の応援者」になることであり、本人の存在意義が一つ増えたことになる。
しかしそのように考えずに行動だけをとっても、本人にそのような意味合いは感じられない。
人間は、自分がいる場のおもむきを意識して主体的に何かを選択し行動しなければ、たとえ何をしてもそれをすることに本心から意味を感じられない。
そのように主体が不在のまま金銭が集められ使われることは、被災者にとっても、かれらを支援する人にとっても、両者がいる日本にとっても、本来もつべき意味をもたない。

日本人の被災時の自助努力についての意識が表れた、2018年1月27日の産経新聞の報道を引用する。

災害では「自助」に重点39・8% 防災に関する世論調査

内閣府が行った防災に関する世論調査で、災害では自分の身を自分で守る「自助」に重点を置くべきだと答えた人が39・8%で最多となり、平成25年の前回調査より18・1ポイント増えたことが27日、わかった。

内閣府の分析、略)

調査は昨年11月、全国の18歳以上の3千人に行い、1839人が答えた。

地域住民らで助け合う「共助」を重視する人は24・5%で、2・3倍に増えた。国や地方自治体による「公助」を重視する人は6・2%にとどまり、「自助、共助、公助のバランスを取るべきだ」とした人は28・8%と大きく減った。

地震の対策をめぐっては、建物や家財を対象とした地震保険の加入者が、前回より7・7ポイント増え46・1%となった。

ところが、住宅の耐震診断を実施していると回答した人は28・3%にとどまり「実施していない」の51・5%を下回った。自治体などの防災訓練に積極的に参加する人も16%にとどまった。 (以下は内閣府の呼びかけ、略)
(産経ニュース 2018.1.27より http://www.sankei.com/politics/news/180127/plt1801270020-n1.html

以下で述べることは、人災をできるだけ抜きにした天災について考えてほしい。
この調査では他人を自ら助けまた他人から助けられる「共助」よりも、自らを助ける(助けられる)のは自らで他人を助けるべきなのはその本人だと考える「自助」の姿勢を支持する人の方が多かった。
しかもその共助の範囲は災害にみまわれる地域住民の内に限られるのに、それよりさらに狭い人間関係の範囲で(おそらく自助には身内での共助が含まれると思う)身を守ろうとすべきだと考える人の方が多いのである。
調査の論点が、平常時の自分の生活ではなく、災害時の自分の生活なのに、だ。

客観的に示された支持率の多少をみて、やはり僕ら日本人は総じて社会的な問題つまり他人に起きた危機を確実に風化させ(その土性すなわち客観的なあり様を軽視し)ながら個人主義を採ろうとする傾向にあると僕は思う。
近年、人為を凌駕する自然災害にみまわれた人のあり様を国民のほぼ全員が報道映像を通じて見聞きしていながら(1つや2つ見逃しても大災害は比較的短期間で続けて起こっているのでほぼ全員に目にする機会があると思う)、客観的に被災者自身になんら落ち度がなかったことを理解しながら、なぜその4割もの人々が自助ありきだと言うのか、もし彼らのあり様を忘れているのでなければなぜそう考えられるのか、僕にはわからないから。

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こんなことが起きたら地域住民で束になっても太刀打ちできないと思いませんか?

人間一人ひとりの人間性から現実をとらえて考えようとする風土学の視点は、もちろん上の調査の選択肢「公助」を現実的な効力をもつ力として支持しない。
風土学の視点からみると、災害にみまわれた人に対しては、報道された調査の選択肢にはないが、被災地の外の住民一人ひとりの自発的・主体的な助けが、日本人全員の生活を将来にわたって災害から守るために不可欠だと考えられる。
公助はそのような主体的な行動の手段としてとられる限りで風土学的に有効であるが、ただ手段がとられるのみでは無意味も同然である。
公助ような手段をとる人の意識が主体的か、そうならばどのような意義(意味=おもむき)が納税主体と補助金の受け手の間に生まれるか、が風土学の視点から見て押さえるべきポイントである。

ベルク氏は西洋近代の姿勢を「人間の知覚よりも知性に重きをおいた」と評した。
前記事の一覧表(の下から2段目より上)は、左側が近代思想を支持し知性を重視する日本人がとりがちな姿勢、右側が知覚を重視する日本人のとりがちな姿勢にあたる。
近代思想の人間の意志と思考力を軸にした思考パターン(義務だから済ませる、権利だから行使する)には結局限界があり、前近代的な目に見えない体=共同体=身を意識した主体的な思考パターンの方が現実的にはより有効だった、と僕は思う。
あなたはどう思うだろうか?