地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

6 個人として生きる自由 -3

都会的な日本人は近代社会のまっただ中にいる

近代化は前近代の文明(のルール)を土台としてさらに新しい次元のルールを生みだしたのではなかった。
近代化が行ったことは意味=おもむきが通過する諸尺度層の最上段、文明レベルの解体だった。
文明的な人とは主観、その脳機能を指すのだと仮定した上で、対する文明的な物とはその対象、客体であると仮定され、両者が決定的に区別された。
その結果、人が自分と他人と事物とで構成していた風物身体が解体されていき、それに備わっていた意味=おもむきが消滅していった。
近代化はそのような方法で、「風土」で生きる人間の主観側とその風物身体の客体側の潜在力を同時に解放したのだ。
翻って前近代の「風土」ではその両者がその裏側(人間の動物身体の客観側の能力的限界と風物身体の主観側が人間行動に加えていた制限)によって抑え込まれていた。
近代は人間の風物身体=「風土」の主観側、すなわち文化が物にまとわせていたイメージ・雰囲気を積極的に否定した。
そして人々は自分たちの頭脳と物の力を組み合わせれば人間の動物身体(自分の肉体)の貧弱さを過去のものとして振り切れると実感し、その方向で実力を発揮し始めた。
その技術という力は、加速度的に近代文明を発達させた。
しかし実のところ、人間の2つの限界はヒトが現行の器質に生きる者である限り振り切れるものではないし、それらは今も無意識に自覚され続けている。

(じつは)無意味な環境から人間の周囲(外側)に展開するという近代的な認識のもとで築かれてきた今日の文明的な諸産物は、その効力の優劣や大小にかかわらず、人間が「何者か」として生きるのに必要な「何かとして」の意味を十全にそなえていない。
それら近代的な機械や建物や道具などのすべては、たとえ何かの役には立っていても人間という主の体の一部として、「風土」としてその背景 と共に認識されていない限り、文明と呼ばれる資格を失ったも同然の状態にある。

そういった事物は、地理的構築物愛好家のような人々から改めて生活的な意味を見出されるまではもとのとおり機能的かつ無意味なままか、エンジニアや持ち主によって後からとってつけられた象徴的かつ表層的な意味しかもっていない。
そしてそのような事物に四方を囲まれた日本の若者は、近代化が事物から伐りだし人の思考に負わせたおもむきを、日本本来の情緒を重視する傾向にも後押しされながら強く欲し、自分の目に留まった物の上に個人的に厚く塗り重ねている。
またたとえば気が済むまで言葉を紡ぎだしてボーカロイドに歌わせ、その情緒を際限ない二次元空間に放出したりしている。

p.324 近代は人格の尊厳と対象の制御を同じプロセスで行うために、高い代価を払わせることになったのである。そして近代の力学が、まだデカルト存在論の基礎にあった絶対者を消滅させてからというもの、この他者化のプロセスのうちに、人間の実存の意味が消滅してしまうのである。

近代思想に抗う日本人

僕は2つ前の記事で日本人は個人主義の影響により、私的領域でだけは個人の感覚や意見が共同体の秩序を凌駕する傾向を見せるようになった、と述べた。
しかし日本人はまた、私的領域で新たな象徴性寄りの共同体を形成しつつある。

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物事の機能性(技術)×資本に携わる人々と、その物事に象徴性×精神的充足面で惹かれる人々

現在の日本社会の表舞台を仕切っているのは資本力のある人々と彼らを守る近代的な制度、そして彼らを支えるその技術力である。
一方、日本の同人界には、彼らに行き場の大方を奪われた人々の主体的創造力がオンライン/オフライン共を通じて結集し、金銭や社会的地位といった近代社会で主流の価値を目当てにしないまま、天井知らずの盛り上がりを見せている。

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同人=同好の士。コミケにはアニメの他にも日常のありとあらゆる物が文化として集まり発表されている。

ベルク氏は、文化人類学が研究対象とするような前工業的な社会(引用内「これらの社会」)と現代の社会(引用内「わたしたちの社会」)とにおける現実認識を比較して下のように述べた。

p.355 この分析の背景になっているのは(わたしはこの分析はまったく正しいと思う)、これらの社会では、「決定的な現実」とは、暗示的な意味の秩序にあるが、わたしたちの社会では明示的な意味の秩序にあるという想定である。どちらの場合にも、二つの「現実」があり、片方は決定的な意味をもち、もうひとつは決定的な意味をもたないと考える精神分裂症のような状態にある。しかし通常の人間精神はこうした分離は認識していない。現実とはただひとつのもの、、、、、、、、であり、三十六通りの現実があるわけではない。この現実はつねに明示的なものと暗示的なもの、すなわちlgSとlgPの結びつきから生まれるのである。象徴的なもの(ひとつの、、、、偽りの現実)は、物質的なもの(真の唯一の現実)から切り離すことができるし、切り離さなければならないというのは幻想だ ― デカルトの二元論からたえず生まれてくる幻想なのである。すでに指摘したように(第30節)*1、問題となる二つの論理のうちの片方だけを選択し、他の論理を排除したり、片方の論理を他の論理に従属させると、必ずや悪循環に陥ってしまう。はっきりさせる必要があるのは、風土エクメーネと歴史の偶発性においては、現実はこの二つの論理の間のつねに独特な、、、関係から生まれるということだ。

引用内のlgSとlgPは、前述したとおり主語(S)と述語(P)である。
上の一連の主張は、現在の日本(人)の実状にもほとんどそのままあてはまると思う。
資本と社会的地位の枢軸を占め社会の表舞台をその技術でもって仕切っている人々と、彼らにろくに目もくれず自分の夢中なことに取り組んでいる人々は、しかし本来は一つの共通した現実に生きているではないか。
彼らは互いに居を共にするこの社会に共通のおもむきを見いだし、手を組んで、日々起きる様々な事象や問題ごと、つまり現実に、共に取り組もうとすべきではないだろうか?