地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

7 社会の公式ルールと人間性

いま日本で公に通用しているルールは、人間性の原点からはずれていると思う

明治に近代化された日本は三権分立体制をとり、法制度というルールで仕切られるようになった。
そのルールは基本的に、西洋近代的な主客を分離するまなざしに貫かれていると思う。
そのような日本の法律は、人間にとって自分がかかわる事物は自分の体も同然の存在であるという現実を認めることができず、ただ人間の身体を物全般よりも尊重するべきだという間違いとは言えないがはっきりいって粗雑な近代的前提に、慣例の視点から現実的な解釈を加えるといった態度で事に当たっている。

p.318 人間存在についてのこの近代的な概念は、人間の身体の個体性という物理的に明らかなことと、個人という概念にまつわるさまざまな価値という道徳的に明らかなことを一致させようとする。
p.318 身体による制約は、それがどの程度のものでも、人々を隷属させるためのもっとも避けがたい手段なのである。 「ヘビアスコーパス」の宣言は、西洋近代の古典的なパラダイムの確立と同じ時代であり、これを確立したものでもある。

…のではないかと法律の門外漢の僕は思っている(もし間違っていたら謝るし訂正する)。
だから人間の尊厳のありかに関してなにか問題が起こった時に、それが日本の法の視点からは当人が実際に感じているよりもずっとややこしく論じられる必要性が生じるのではないか。

日本人の文明レベルの活動が本来の(文明のメンバーを主とした)形で作用しないよう説くルールに牛耳られている現在もなお、人間は自分の内外2つの体の統合において生きているし、この世界は「風土」である。
近代化を経てもなお、人間の無意識レベルの暮らし方は変わらなかった。
しかしその意識レベルの変化により変更された社会のルールは、人として物の力をどれだけ手中に収めるかがものをいう、1つ下位のレベルすなわち生態系レベルのルール=弱肉強食に近いものになった(戻った)。
人類は近代化によってホモ=サピエンスが数十万年前に手にした自由をなかったことにしようと努め、今日の日本においてはその努力が広く実を結んでいるといえよう。

人間性の目指すところ

近代化の前後で人間の暮らし方において変わったことは風物身体の自覚有無と自由を求める手段、その結果として増えた今・個人の自由を求められる度合いである。
変わらなかったことは、人間は人個人としてまた間柄として2つの体を合わせもち、できる範囲で最大の自由を求めていることである。
だから人間が生活の営みにおいて自由を発現して求めていることは、近代化の前後を問わず同じなのではないか。
あの一般的に幸福と呼ばれる状態であり、自分の生きる意味を知るということではないか。
その感覚は、天災や社会悪に遭遇すればそれらから影響を受けるが、それらの有無ばかりには左右されない。
もちろん主観的に把握されることだが、客観的に観察できる自分の状況を無視して達せられることでもない。
そしてそのあり様は、人によって異なる。

人間の風土性の例として北海道の困難あふれる事業環境において稲作や酪農業を発展させた開拓者の例を挙げながら、ベルク氏は問う。

p.203 意味=おもむきがなければ、どのような規模の人間の営みも、決して実現されることはないだろう。そこでわたしたちも、この意味=おもむきそのものを考察する必要があるだろう。この章で示した実例は、人間の風土ミリューの封土=動性と通態性を解明するために役立つものだが、まだ本質的なことが語られていない。そもそもなぜこの意味=おもむきであり、別の意味=おもむきではないのか。人間と風土ミリューの〈ともに行く〉ことにおいて、なぜ地平があり、なぜ歴史があるのか。すなわち、どこでもない場所ではなく、ある場所へと赴くのはなぜか。

「封土=動性」というベルク氏の造語については、今は触れない。
興味のある方は本書にあたってほしい。
いま取り上げたいのは引用文のそれ以外のすべてである。
前述のとおり(何かの)意味=おもむきとはその〇〇の〇〇らしさ、たとえばあなたのあなたらしさのことである。
風土性の視点から、たとえばあなたは、どのようにあなたらしくなる(いる)べきなのか。
なぜ、そのようになる(いる)べきなのか。