地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 地理学者による人間性についての仮説 その2 -1

人間自身には説明できない「自分の生まれた/生きる意味」

人間が物を「風土」にする(ベルク氏曰く、物と通態する)ことで物に意味が発生するといった一連の運動の原動力、それは人間の本質すなわち肉体的な欠落感である。
人間は、これを埋める何かを自分の外に求めて文明と歴史を紡ぐ。

その欠落感には2つの種類がある。
一方は機能的な不満や不足で、人間は技術を環境へ向かって展開することでこれを克服しようとする。
もう一方は、ベルク氏の表現によると、人間が象徴によって環境を体内に取り込むことでしか克服できない不全感である。
物がある象徴として(その象徴性により)その内面から人間の内面へ伝えるものは、人間が自分の中に保持していると無意識に感じているもの、しかし把握することも制御することもかなわない何か、自分の生の背後に生まれる前から働き続けている力のようなものである。
「どうして自分は生きているのか」という問いの答えとでもいうような。
また、あらゆる物が「そもそもどうして存在するのか」という問いの答えでもあるような。
それをベルク氏は「宇宙性」と呼ぶ。
宇宙性は、拙ブログで以前、現実を「風土」というトリセツで表したときに「認識不能なもの」と述べたものにあたる。
だから宇宙性は「風土」としてとらえられるあらゆる事物一つひとつの中にも、人間の中にも、認識から外れる形で常に存在する。

p.349 風土性の観点から次のことを確認しておこう。わたしたちの身体は知らぬ間に、わたしたちが心を配るものを身体化している。医者ならだれでも知っていることだ。しかし医学は、病理学的な傾向のものしか認めない。胃の潰瘍やその他の不快な現象だけに配慮する。ところでこうした現象が示すのは、存在の構造そのものである。わたしたちの動物身体はそれに固有な用語で、すなわちそれが述語するもの(lgP)において、わたしたちの風物身体であるものを把握する。身体化は実際は通態性というごく一般的なプロセスのひとつの側面にすぎない。この通態性によって、わたしたち自身から生まれた世界が、わたしたちの〈肉〉のうちを再び訪れる。その逆に、わたしたちの動物身体は、それが述語するという事実のために、わたしたちの風物身体を宇宙化する。動物身体は風物身体に秩序と意味を与え、そこからわたしたちの世界(コスモス)を作りだすのだ。

近代の視点、とくに文化人類学の視点からは、これは象徴的な秩序が投影されたものにすぎない。記号の恣意性と(集合的な)主観性の自律、すなわち精神にかかわるものなのだ。すなわちわたしたちの生物学的な生はつねに社会的な生でもあり、すべての種類の儀礼を伴うという人間学的に基本的な事実は、この観点から考察されるようになる。しかし風土性の視点では、認知科学の裏づけをえて(第39節)、これはわたしたちの身体のさらに深い場所にねざした存在論的な構造を示すものと考える(生態学的な栄養循環に根をおろすものだからだ)。これはわたしたちの風物身体と動物身体の間で必ず発生する相互作用を表現したものなのだ。要するに、人間の身体は、、、、、、風土エクメーネを身体化する、、、、、、(lgP/lgS)と同時に、、、、これを宇宙化する、、、、、、、、(lgS/lgP)のである、、、、

引用部の内容についてはこれから順を追って説明する。
とりあえずまとめると、これがベルク氏第1の仮説「人間はまわりの物を自分の一部(体)だと認識する生き物だ」に続く第2の仮説

人間は、まわりの事物を通じて自分が宇宙の原初に連なることを確かめ実感しようとする生き物だ。

である。
宇宙の原初という語は、神、大自然、森羅万象、それらの力などと言い換えることもできる。

そのような力の知覚とは、具体的には何をどのように認知することか。

p.350 この通態的なプロセスにおいては、自然と文化、精神と身体がたえず干渉しあっている。アフリカのサバンナにおいて、マンスの垣林ボカージュにおいて、魔術が少なくともある程度の力をもっているのはそのためだし、中国で「気」に力があるのもそのためだ。人間存在がみずからかかわっていると感じる必要があり、それで十分なのだ。これは、近代の科学と技術の普遍性にかかわるものではないが、風土の個別性にかかわるのである。

アフリカや中国の例は「病は気から」ということわざと同じ類の、いつでもどこでも正しいとはいえないが、条件さえそろえば、ある場に限っては一理あるような理屈である。
それらの例がベルク氏のいうように「近代の科学と技術の普遍性にかかわるものではないが、風土の個別性にかかわる」というのは、あなたの常識とも一致すると思う。
その理屈が有効に働くか否かは、「人間存在がみずからかかわっていると感じる必要があり、それで十分」という点にかかっている。

ベルク氏は気功を例にとって、人間が「風土」を宇宙化する、すなわち「風土」を通じて宇宙性の端緒に達する感触を得るとはどういうことかを説明した。

p.347 中国では(そして中国から始まって世界全体で)、「気」と「風水」の問題は多数の混乱した迷信に妨げられ、ごく反動的なまやかしに支配されている。ただこの障害物を取り払ってみれば、この問題は人間の現実にじかに触れているのである。それは、すべての視点がそれなりに妥当するという基而上主義的な民族学の意味においてではない。気はわたしたちが考えるよりも、中国的なものではないのであり、西洋を含む人間の実存の普遍的な、、、、土台にかかわるのである。実際に「気」は風土エクメーネに固有な風土性の現れなのだ。

p.348 東洋の営みは普遍性へではなく、特殊性へと向かう。しかも外面性においてではなく、内面性において。ここで目指されているのは、自然と一致するまでに自己を制御することだ。デカルトの方式のように、対象の状態にまで還元された自然の「主人や所有者のように」なることではない。(たとえば西洋の医学はまず、身体を対象の状態に還元するのである)。

東洋のこの姿勢は、近代の理性の観点からは受け入れられないものになる。西洋医学も昔から、「心身医学的な効果」という名称で、精神と身体の相互作用を認識していたし、その知識をもっていた。しかし実証主義にとっては、これは自己暗示の問題にすぎず基本的に非合理的なものだから、、、、、、、、、、非現実的なもの、、、、、、、にすぎない。しかし物理学で測定できるものを、いつまでも認めないわけにはいかないのだ。さらに自己暗示という概念そのものが精神分裂症を思わせる。相互作用の原則を拒みながら、その現実の存在を認めているからだ。いまでは「気」が示すような問題を、実験的に、そして合理的に解決するために正面から取り組むことこそが、理性的な姿勢だと言えるだろう。

p.350 実際に「気」はある現実(lgS/lgP)についての中国における述語(lgP)であるほかない。ところでこの現実の物理的な様態(lgS)は、他の方法でもほぼ確定できる。しかし当面は「気」そのものを物理学的に確定できるわけではない。述語は主語ではないからだ。中国の世界の自己述語化が、物理学とかけ離れたものとなったのはそのためだ。風水は、自己のうちに自閉しようとする世界性が(第12節)、非合理的なもののうちに漂流してしまう様子を示している。しかしだからといって、風水の宇宙化の特性と、身体化におけるその意味が小さくなるものではない。中国の風景と中国人の健康にとっては、「気」の流れに逆らわないのがよいだろう。

そして、前の記事の最後で触れたことについて。

p.351 言い換えると、風物身体と動物身体は調和することが望ましい。必要な変更を加えれば、この文はわたしたちのすべてに妥当する。この調和とは、自分が存在するという感覚である。生きることの幸福さということでさえある。わたしたちの科学はこの領域にはほとんどかかわらないが、これを無視することはできない。しかし「必要な変更を加えれば」という条件は、しっかりとおさえておこう。「気」が特定の風土ミリュー(lgS/lgP)にかかわるものであることを無視して、まるで物理学(lgP)にかかわるかのように考えて、風水をそのまま垣林ボカージュに適用しようとするのは、たんなる述語を実体化することであり、個別的なものを普遍的なものと混同することだからだ。それはたんなる迷信そのものにすぎない(lgP)。