地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 地理学者による人間性についての仮説 その2 -2

人間は自分のまわりの物と調和した生き方において「生きている」という実感を得る生き物である

人間以外の生物は自分の体(の生死)に疑問をもったりせず、人間のように不満を感じずに生きる。
一方の人間は、まわりの物を身体化し、かつ宇宙化して取り込むことが成功して初めて「自分が存在するという感覚」を得る。
ベルク氏はその感覚がもたらされた状態をこう評した。

p.351 風物身体と動物身体は調和することが望ましい。必要な変更を加えれば、この文はわたしたちのすべてに妥当する。この調和とは、自分が存在するという感覚である。生きることの幸福さということでさえある。

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絵にしたらよけいにわかりづらくなった …続きを読んでください

人間は、自分の制御できない体質や情動(もって生まれた身体的特性に由来する自律神経の働き、気持ち、好み 等)において、ある事物のこれまた変えようのないゆるぎない働きに触れる(前記事引用内「みずからかかわっていると感じる」)時、その瞬間にまるで宇宙の端緒へ向かって通路が開かれるように、自分が生まれた理由を知ったような、自分の生きていることを全面的に肯定されたような感覚を得る。
自分という人間の意味=おもむきを理解し生感覚を得た人間は、その自分の意味=おもむきにおいて生きようとするようになる。

p.349 動物身体は風物身体に秩序と意味を与え、そこからわたしたちの世界(コスモス)を作りだす

自分の風物身体(風土)において宇宙性に到達した人間は、その風物身体をその新たな意味=おもむきにおいて再編成し、人間的に成長していく。
それが前記事の引用で述べられたことのあらましである。

宇宙の端緒とはなにか?それはあなたにも関係あるのか?

しかしまた宇宙の端緒とは、なんとも現実離れした概念のように思える。
ベルク氏はそれに触れる感覚を説明する。

p.356 この通態的なプロセスは、わたしたちの動物身体によって、わたしたちの風物身体が身体化され、宇宙化されることにほかならない。ということは、わたしたちの〈肉〉が宇宙を捉え、そこから世界を作りだすということだ。それは装身具を身につけるように、みずからを飾るということだ。
p.68 世界を意味するラテン語ムンドゥス(mundus)は、ギリシア語のコスモス(kosmos)と同じように、二重の意味がある。「世界、宇宙」を意味すると同時に、「秩序、装い」を意味するのだ。ここに、人間の身体の飾りや手入れと、宇宙論の主張の間に、もはや記憶もとどかなくなった古い結びつきの痕跡をみることができる。アボリジニたちは祭りの際に、身体装飾とダンスで、こうした結びつきを表現していた。女性の装身具(mundus muliebris)という言葉には、現代ではほとんど見分けがたいこの隠れた結びつきがひそんでいる。これは宇宙の秩序、すなわち大文字の世界を到来させ、守ることなのだ。

ベルク氏も本書で触れているのだが、あなたにとってこのような世界観は文化人類学的に、つまり近代化以前の共同体だけでしか通用しないようにみえるのではないだろうか。

多くの日本人は自分たちの命運を、呪術や風水のような習わしよりも科学技術や経済活動などに託そうとしている。
僕らが家や職場を整頓し清潔に保つことは自分とまわりの人が気持ちよく過ごすためであり、神秘的な力の加護を目指してそうしているわけではない。
化粧や装身具は己を人間社会において飾ってくれるけれど、これが森羅万象と交信する手段だなんて今日の日本では到底共感されないだろう。
この国の肌を見せる遊興施設の過半数が、入れ墨が古の社会から人間に果たしてきた様々な役割をどれもこれも「暴力団の印」ひとつのようにみなして「入れ墨・タトゥーお断り」の看板を掲げ、利用者のほとんどがその姿勢に得心しそれを受け入れている。

宇宙化とはこの(人間の、そして個人の)世界の創生、世界観における「そもそも」に関わることだが、僕たちはたとえば古事記という神話を、広い世界の中で他の民族の神話と同様に僕らの祖先も授かった「物語」の一つだとみなし、その中にいま自分が切に求める真実を探そうなんて考えない。
つまりかけがえなく大切ではあるけれど、自分の今日の生活に直接役には立つわけではない遺産だとみなしている。

僕たち日本人はもう、宇宙化の感覚を失ってしまったのだろうか?
ベルク氏の2つめの仮説は、僕らにとってはもはや無効なのだろうか?