地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 彼岸の力を味方に取り戻さんとする衝動 -2

菌群の活動にまつわる日本人の営みと価値観

菌は生物である。
菌は菌類という名で生物学において動物、植物と並び分類される生物の一種である。
菌類は専門的には真菌と呼ばれ、キノコ・カビ・酵母などがそれに含まれる。
また大腸菌や発酵食品においてはたらく菌は細菌といって上の菌類よりも小さい生物だが、こちらも一般的に菌の一種だとみなされている。
菌は小さな生物すなわち微生物とも呼ばれる。

菌という生物は、単体ではなく群生して人間の生活に影響を及ぼす。
だから僕はこれからそれを、とりあえず菌群と呼ぶ。
人間にとって有害な菌群は、昔も今も人間の生活を脅かす存在である。
有害な菌群は物に宿ってそれを腐らせたり、人間の体内にはびこって病ませ、死なせることさえある。
近代化が始まって以来、日本人は日常生活のすべての場面に生息する雑多な菌をばい菌として認識して排除し、衛生的な生活の実現を目指してきた。
生活習慣の改善が呼びかけられるほか、人間に物理的に接触するものを除菌する衛生用品が開発され続け、その度合いは今も強まり続けている。

その一方で人間の文明は、特定の菌群のはたらきから大きな恩恵を受けて成り立ってきた。
そのはたらきの代表格に発酵がある。
醤油、味噌、納豆、漬物、チーズ、ヨーグルト、アルコール飲料他すべての発酵食品は特定の菌群の働きを欠いては作れない。
そして日本の発酵関連産業全体において、それら発酵食品製造業の占める割合は20%ほどにすぎないという。
つまり今日、発酵食品製造業の4倍ほどの規模で、なんらかの形で発酵を利用した産業が営まれている。

菌群の神秘性

人類は古来、それぞれの文明を通じて菌群とつきあってきた。
そのつきあいの形は相手の姿に左右されづらいゆえ、人間自身を映す象徴性の濃い文化形態をとった。
なんといっても菌群はよほど大繁殖しない限りそれ自体が不可視、小さすぎてまさに把握しがたい。
しかし菌群はそれが寄生した物におけるその働きにより確かな存在感をはなち、その存在が科学的にも確認されている。
しかしまた菌群は、人間の関与を受けはするものの、時に人間の予想を裏切ったり超える形をとって独自に生きたり活動したり死に絶えたりもする。
菌群はもともと人間にとって神秘的に生まれついた存在なのである。

今日の日本人と菌群

近代化以降の日本社会はしばらく、菌群の有効な働きの活用は専門家にまかせ、その他の機会において菌群を扱うことがタブー視されるような清潔志向一色に染まった。
たとえば伝統的な漬物づくりは不衛生なイメージを伴いながら敬遠されるようになり、それと比べようもなく安価かつ手間いらずで手に入る市販の漬物に取って代わられていった。
雑菌を排除し不衛生を遠ざける活動は、特に免疫力のまだ弱い子どものまわりにおいて強く推進された。
それにより種々の病原菌群に起因した子どもの致命的な事故は、以前と比べて減ったのではないかと推測される。
ただし今度はアトピー他種々のアレルギー性の病的症状が子どもたちに現れ、それが菌群との接触減に起因することがわかってきた。

近代化後の紆余曲折を経て現在、菌群全般は大多数の日本人にやはり嫌われ恐れられながらも、たとえばプロバイオティクス食品の流行*1のように、部分的に非常にポジティブな価値をもつ存在として求められるようになってきた。
神話や八百万の神が昔話という地位に転落してそこから這い上がれない一方で、菌群はそれら日本的神仏の果たしていた役割をも引き受けながら、新たな姿をとってその神秘的な価値を発揮しだした。
菌群の専門家を除く多くの日本人が、そのほとんどの人が直接見ないでいる菌群の存在を確信しながら恐れ、ヨーグルト他の培養地の中にその力においてそれを観察し味わい、その菌群自体を知覚したつもりになっている。
もしも生きた菌群(死骸を含む)が目に見えたら、虫を嫌うような人は、また虫を見たり触ったりできる人でも、それが表面から中まで大量に取りついた食品なんて気持ち悪くてなかなか口に入れられないんじゃないかと思う。
僕らは事実上、菌群をその存在自体ではなくそれが発揮する力の存在感において認識していると思う。

また、発酵という菌群と人間の共同活動を、体の健康に根ざしながら生理学のレベルを超えて文化的な価値をもつ行為として、私的生活において実践しようとする人々も増えてきている。
彼らは菌群を手に入れ制御するというよりも、善き菌群に居てもらいそれ自体のはたらきに自分や家族の健康を守ってほしいと願っている。

p.390 現在においても過去においても、宇宙性とは現実が具体的に調和することにほかならない。

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姿の視認× 力の実感〇

これはもう、はたから(つまり客観的に)見たらかつての日本人の神仏信仰とほとんど同じ姿勢ではないだろうか。
つまり食生活に伝統を受け継ぐばかりではない観点から発酵活動(天然酵母培養や漬物、味噌づくり等)を生活にとり入れている人は、発酵を通じて自分たちの生活を宇宙化しようとしているのではないか。

そして、次の記事で詳しく述べるが、菌群は実際のところ、その分野の専門家が最新の科学知識・技術を動員してもまだ解明しきれない謎の力を豊富に保った存在なのである。

菌群の生態と働きはそれ本来の多様性と神秘性、それらのせいで価値の両極に達するほどの多義性において、一手に把握するには余るほど多岐に渡る影響を僕ら人間の生活に及ぼしている。
今日の日本でそれらへの大衆的な注目度が高まるうちにとうとう、菌群のはたらきについて科学的・実務的に解明され利用されていることと、菌群が現代日本社会一般に発揮している価値感について、その両方を総括しようという試みが一冊の本として世に出された。

*1:プロバイオティクス食品も前述の健康食品の一種だが、後者全般に単なる物質が含まれるのに対し前者は生物であり、ある種主体的な力をもつ点で異なる