地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

5 世間話にふさわしい論点

日本の菌群&発酵ファン待望の書『発酵文化人類学

『発酵文化人類学』(木楽舎、2017)を著した小倉ヒラクさんは、発酵デザイナーというユニークな肩書を名乗る。
この本で小倉さんは学生時代に学んだ文化人類学とその関連学問の知識、それに効果的な情報伝達を助ける本業のデザイン技術を使って、人と菌群の発酵活動とその文化一般への絡み、その広く深い世界の知識をとてもわかりやすく開陳する。
この本の売りは、非常に深い(細分化され専門的な説明を要する)科学や技術的な実話を広く扱いながら、身近な/身近ではないが説得力のあるたとえ話を用いて、それらの要点や要点同士の関わり方を素人にもわかりやすくおぼえやすく紹介しようとしていることだ。
だからこの本のテーマすなわちタイトルの「発酵文化人類学」とは

発酵を通して、人類の暮らしにまつわる文化や技術の謎を紐解く学問のこと。生命工学=バイオテクノロジーの応用研究のように、新しい技術や商品を開発するのではなく、すでにあるものを集めて編集し直し、文化や技術の歴史に新しい視点をもち込む。(20ページ)

ことだと小倉さんはいう。
このテーマの方向性は、『風土学序説』やそのベースとなった地理学と同じだ。
大量の専門的情報が世界中にちらばる今日、インターネット上にキュレーションサイトが乱立し利用されることに表れているように、この種の一段高い視点には確かな需要がある。
(キュレーションの意味は、上の引用で述べられた「すでにあるものを集めて編集し直し、文化や技術の歴史に新しい視点をもち込む」に近い)

発酵文化人類学的キュレーションの効力

『発酵文化人類学』は、上で述べたとおり身近な/身近ではないが説得力のあるたとえ話で、複雑な菌群の生態と環境や産業の関わり方を解説する。
複雑な現実の一面を切り取り、まったく別の卑近な話題にたとえるその論法は、実はいろいろな地理的決定論と同じ、物の象徴性に着目した説明手法である。
しかし小倉さんは決定論者とは異なり、たとえ話を繰り出しながら同時に「自分はこう思うけどまちがっているかもしれない、決めつけているわけではないのだ」ということを暗に明に示そうとし続ける。
だから、この本の論法は決定論とまったく同じだが、「決定しているのではない」というその論調はまったく決定ではない
確かにこの本を読むと「そのたとえは無理があるんじゃないか」「その解釈は表面的にすぎないか」などと思える箇所もあり、小倉さんは世に開かれた本の著者としてまっとうな責任を果たしていないようにも思える。
しかし要は、著者が読者の解釈に委ねる幅を広げれば広げるほど読者自身の主体的な思考を刺激し発動させる(たとえば内容への疑いが自身に関連する想像を呼び起こす)ことになるのであり、小倉さんがそちらを狙ったであろうことは明白である。
「アナタの好きなペースで、好きなように解釈して読んでね。」(p.31)なんて書いてあるし。
もし読者が、小倉さんがくどいくらい繰り返す「この本の読み方」を無視して開陳される知識だけに注目し「発酵のプロが著したこの本の内容は100%正しい/客観的な真実である」と(勝手に決定論を読んだように)受け取ってしまったら、この本の真価は発揮されないし、むしろ読む前より偏見を増やしてしまい読者自身にとって害を成すだろう。

人の主観が混じった話の正しい論点(問い方)

自然界から文明までこの世界の異なるレベル(尺度)を見渡して、「自然のこの働きと人間同士のこんな関わり合いには似たところがある」などという言説は、それを語る人間の数だけ生じるものだ、それは人毎に異なって発揮される物の象徴性に起因する思考の表れだとベルク氏は述べた。
物の機能性ならぬ象徴性は人間の情に直接訴えかける力をもち、機能性と同じくその効力のみに着目し利用しようとする人を知らないうちに自己満足に陥れてしまう諸刃の剣だ。
自己満足は人間性の原点たる風土性に反し、それに陥った人を(自分と異なる感覚をもつ)他者と対立させる原因となる。
だからある事物が象徴的に表すこと(たとえば魚のホッケは全然関係ないけどなんだかペンケースに似て見えるとか)が現実的な問題として問われるべき意味は、その客観的な是非(似ているように見えるか/見えないか、それは実際に関連しているから似ているのか否か)であってはならず、客観的な側面は客観的にふまえながら尚「自分には/あの人には、なぜそう見えるのか/見えないのか」という問う人の価値観の方なのである。

何を言いたいのか伝わりづらかったかもしれないので、改めて説明する。
現実において、人間の生活に関わる以前の自然すなわち自然科学以下の尺度(「風土」の土性)の話には、誰にとっての価値も問うことができない。
そのような話ではそれが事実なのか否かを判定することは可能だが、それを人間が話したり問うこと自体に意味は一切ない。
それとは逆に、現実的に意味のある話とはすべて客観的・科学的に裏づけられること(「風土」の土性)+人間の事情(「風土」の風性)であり、白黒をつけ難い話ばかりである。
たとえばイタリア半島の形は長靴に似ているか否かも、またある病の患者が治療において難しい手術を受けるか対症療法を続けるかも、「はたから言うなら」という態度でその選択のどちらの成す意味の方が大きいかを問うことは、問題に現実的に向き合うのにふさわしくない態度である。
人間の事情すなわちその元にある価値観と背景があってこそ問われた問題である以上、それを事情の関係者の視点抜きで考えることはその問いの存在意義を無視する行為であり、問い方として不十分だからである。
もしそれを本人以外の人が「客観的に」問おうとすると、それは問いの内に既に含まれている本人の視点を他人の視点にすげ替えているだけなので、客観的視点を装いながら(本書いわく客観主義的であって)あくまでも第三者の視点から問いに答えているにすぎない。
もしもその種の(誰かの主観を含む)問いに真に客観的に、つまり人間の主観をまったく抜かして答えを出すならば、何を選んだとて真も偽もない。
たとえば長靴に似ていても似ていなくても、難手術を受けても受けなくても、本人にとっては(大小様々の)問題であると同時に、客観的にはそのどちらを採ってもまったく問題はない。
そのような問いにおいては、その選択をするべき本人の視点から、自分はどう思うか、どちらがじぶんらしい選択なのかを考え、是非として判断するところにしか、それを問う現実的な意味(価値)は生まれない。
一方、他人がはたから客観主義的な目でその選択それぞれのもつ意義の大小を問うことは、その人の価値観の叙述に終始することになり、だから問えば問うほど自己満足的な叙述が続いてしまうのだ。

もしそのような世間話に(たとえば複数主体間の利害の対立を調停するために)話者の主体性における白黒をつけようとする際には、本書でいうところの人間が無意識に組み合わせている主語と述語の区別または拙ブログでそれを解釈しなおした「風土」というトリセツを意識して、問いにおける主体の心身からそれが関わる背景まですべてを含む、問われる意味=おもむきの発生している現実全体を見渡してその方向性が検討されるべきである。
そしてもちろん、世間話とは前出アリアドネの糸にあたる、世間を維持し発展させる対話であり、本来は物事に白黒をつけることよりも異なる人間主体の間で続けられていくことの方に意義がある。

昨今はそのような命題に「客観的な視点から」是非を下そうとする言説がメディア上を飛び交っている。
この種の命題にふさわしい判断方法は、本書でいうところの「存在論的な方法」すなわち主体にとっていかなる意義をもつかを問う方法であり、そうでなければ命題を立てる意味がなくなってしまう。
どういう意味かわかるだろうか。
真に客観的な視点から人間(一人ひとりも全員も)についていえることは、「いるかいないか(いたかいなかったか)」ただ一点のみではないだろうか。
真に客観的な視点から見れば、この世に人間がいてもいなくても何一つ問題はなく、そのような視点から人間にとって現実的な問題すなわち是非は問えない。
常に主観と客観の複合体である現実的な問題からみると、客観的な視点から見た世界のあり様は、それがどれほど正確であろうと現実の要素でしかない。
一方で「客観的」または「客観性の高い」と謳いながら人間の価値観に関わる事物について語る言説の実際は、視点を少し高くもちあげた個人(集団)の主観を通した現実認識である。
その言説は、論調が「客観的視点からはこれが正しい」と決めつけるような態度であるならば歴史ある決定論の系譜に連なろうとし、主語を限った意見表明や話者から他者へも意見を問うような態度であるならば自他の人間性を認めた姿勢で聞き手の世間に連なろうとしている。
そしてその言説がどちらに属するかは、上で『発行文化人類学』の読み方で述べたとおり、最終的に聞き手の受けとめ方に委ねられているのだ。