地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

8 「風土」と人間は同時に実現する -2

物の本性と自分の本性の一致 ⇒ 夢中

ある人が自身の物理レベル、生態系レベル、文明レベルそれぞれの"持ち合わせ"から、ある具体的な環境の文明レベル、生態系レベル、物理レベルへと、歴史・地理的な「おもむきに沿って」無理なく働きかけた時、その人は初めてそれらの裏で働く森羅万象の力を感じ取る。
その力の存在感が人間が無意識に抱えている不全感を満たすとき、人間は初めて他の生物と同程度に生きている実感を得る。
同時に人と物がしっかりと通じ合い「風土」が本当に本人の体も同然の存在となる。
人は自分の行動がその「風土」の背景の向こう側(森羅万象)まで突き抜けるように伝わったように感じることで、「風土」のすみずみまで感覚が通じたように感じるのだ。
その結果として本人はより自分らしく、物の方はその本性と背景に合致した「風土」らしいものとなる。
その通じ合いの成立する要件には、物の本性だけでなく人の本性も要求される。
前出の菅付雅信著『物欲なき世界』(平凡社、2015)を読んで僕が最もグッときた箇所は、その通じ合いの人間側について経営のプロフェッショナルが言った言葉だった。

すごく手近な部分で、社員の幸せとはなんなのかということをすごく考えますね。極論すると社員の幸せというのは、やりがいのある仕事を与えるか、高額のギャランティを払うしかないんですよ。両方を与えられればベストだけど、その二つしかないのかとも思うんです。
(同書 p.42)

つまり「その二つ」の他にも、(人がある会社の)社員として幸せになる道はあるのではないか。

たしかにマネジメント面では難しいかもしれないけれど、働くことは"work"であったり"labor"であったりするけど、"play"でもあると思うんですね。僕は努力が大事だとは思うけど、"努力は夢中には勝てない"とも思うんです。そういういろいろなことに夢中な連中が集ってくれるコミュニティの集団ができればいい。逆にそういうことがなくなって、大元に戻って暑さ・寒さをしのぐためだけの仕事だったら、ファッションなんていらないんですよ。
(同書 p.43)

言った人はファッションブランド ビームス代表取締役・設楽洋さんだ。

僕らの動物身体は、他の動物と同様に暑さや寒さを感じる。
そして僕ら人間だけが後天的に持つ風物身体は、五感の他にも様々な感覚を覚える。
だから人間が生きるためには、たとえばファッションのような畜生には必要のない営みがどうしても必要なのである。

人間に身体化され宇宙化される世界

以上ベルク氏の仮説1及び2「人間の身体は、風土エクメーネを身体化すると同時に、これを宇宙化する」は人間性の原点(風土性)の全容を表すのだが、いかがだろうか?

事物の本性(宇宙性)も自分の本性(宇宙性)もそれがあるがままの事実であり、人間に選択の余地はない。
個人にとって第2の体ともいえる風物身体、共同体における「風土」という体は、自分の本性に合致する物の本性を環境のどこかで見つけるまで、自分の属する共同体の範囲すなわち「風土」状の世界を、遠くへ遠くへと広げ続ける。
『風土学序説』によると宇宙性は結局人に把握しきれるわけではないのだが、人間はその一端に触れて「これだ」と実感を得るだけで実存し、外側へ広がるだけでなくその「意味=おもむき」の感触を元に自分の世界(風物身体)を再編成し、その世界観を深める活動をも行うようになる。

p.349 わたしたち自身から生まれた世界が、わたしたちの〈肉〉のうちを再び訪れる。その逆に、わたしたちの動物身体は、それが述語するという事実のために、わたしたちの風物身体を宇宙化する。動物身体は風物身体に秩序と意味を与え、そこからわたしたちの世界(コスモス)を作りだすのだ。

つまり人間は自分が夢中になれることを見つけると自分の価値観を変え、その価値観のもとで自分の考え方や行動を変え、はたから(共同体の仲間はもちろん、異文化に生きる人の目から)見てもなんとなくわかるような独自の秩序に従った(ただし本人の主観と対象との間に発生するため、なんら客観的な正当性を帯びることはない)生活態度をとるようになる。
その価値観は本人の居住まいを変え、その行動をとるのが集団ともなるとその地の景観をも変える

また宇宙性自体は届いてもつかみとれないため、その宇宙性を求めるという構図の世界観は本人が死ぬまで、知覚できる環境からその外側へ生きる意味が求められるという形で、本人が万物に感じる意味=おもむきにより満たされ続ける。
そして本人の主観から発生したその意味は、環境の事物において本人の風物身体として本人の本体(動物身体)を離れて客観的にも知覚される形をもち、その共同体に、世界に残る。

人は死に、人の間は変わる、しかし絶えず死に変わりつつ、人は生き人の間は続いている。それは絶えず終わることにおいて絶えず続くのである。個人の立場から見て「死への存在」であることは、社会の立場からは「生への存在」である。そうして人間存在は個人的・社会的なのである。
和辻哲郎『風土 人間学的考察』p.20)

複数の記事にわたり述べてきた、一部の日本人が菌群に求めている宇宙性は、「風土」の宇宙化の一例にすぎない。
ある事物に関するプロフェッショナルという生き方も、人間と物の通態(物の「風土」化)の一例にすぎない。
それらに共通する構造こそが肝心なのである。