地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 実存のはじまり

人間の世界観はそう簡単に宇宙化されない

『風土学序説』は、今日の技術的・象徴的な諸事物(つまり僕らが認識しているものすべて)は、人間が自身の宇宙化を目指して環境を身体化すべく文明を展開してきたことによる産物だと主張する。
その展開を可能にするのは、人間の脳を初めとするDNAで規定された器質的な特徴だ。
その器質的特徴は文明の展開を可能にしているだけではなく、実はその展開の原動力となる無意識下の自覚をも全人類にそなわらせている。
自分の体は単体では不完全であるという自覚である。
人間は生まれた時からそれらを無意識に感じているゆえに、他者と共に体の外へ向かって言葉を発し道具を使い、環境を取り込んで集団的な体をもつようになる。

だから(器質上の障害のない)人間は全員、生まれると同時に物を「風土」として身体化する、つまり自分の身体と同一視し始める。
その過程では人間を取り囲む環境内の万物が「風土」として、本人が生きる意味としてはまだ不完全ながらもなんらかの意味=おもむきを宿す
しかしその「風土」が宇宙化されるかどうかは運次第なところがあり、世の中には宇宙化がかなった人間もかなっていない人間もいる。
前記事で挙げた経営のプロの言葉を借りるならば、世の中には自分が夢中になれることを見つけた人も、まだ見つけられていない人も両方いる。

人間本来の世界観

もし、ある人が自分の命は人間以外の力に頼っていると実感すると、その人は利己主義を心から否定するようになる。
それと同時に、その独自の確信にもとづいて自身の世界観全体を再編成し始める。
近代以前の地域共同体はそのメンバー全員で世界観を共有し、だからこそその住み処は、世界中で似たような景観を作った近代都市とは異なり、自分たち独自の世界観を表現する個性的な景観を作っていたのだ。
ベルク氏はその姿勢を「世界の島嶼性」と呼んだ。
島のように孤立した世界それぞれが、独自に人智以上の神秘の力を受け容れようとして事物においても行動においても整えていた姿勢が、その個性的な景観に生み出していたのである。

p.70 都市、とくにローマという都市は、こうした宇宙の秩序のうちに保証されている。都市は宇宙の秩序の源泉であると同時に、秩序を保証するものなのである。 世界の他の場所を探し回る必要はないだろう。このローマの歴史だけをみても、世界性がみずからの場所において絶対的なものとなる好例がみつけられるのだから。

近代思想はその主観的な個性を否定し、客観的視点からみた効率化を唱えながら均質で無限な世界観を展開した。
その功績は絶大だったが、その枠組みは僕たち人間の世界観を受け止めるには粗雑すぎた
前近代の共同体の島嶼性は、現代科学が自分の先祖となった近代思想を乗り越えて構築しようとしている宇宙感にも引き継がれている。

p.57 島嶼性は、わたしたちのこの世の条件であり、これを乗り越えることはできない。そしてわたしたちの宇宙論にはこうした世界性がつきものなのである。
p.59 この論理は、相対的なものを絶対化するものであり、世界性の論理である。ところでこれは普遍的な論理でもある。すべての時代に、すべての人類において、島嶼性という同じ原則から派生して、この論理が無数に異なる形で使われているからだ。
p.60 わたしたちの視点からみて、こうした島嶼性を嘲ったり、世界は相対的なものにすぎないと指摘したりするのは、たやすいことだ。しかしそれは問題をずらすにすぎない。重要なのは、世界というものには、その計測の規模はどのようなものでも、他のものと同じ尺度ではどうしても計れないという性格があるということだ。世界はつねに大文字の世界そのもの、、、、なのである。だれもがこの世界のうちに含まれているし、世界はつねに単数で示されるからだ。あるいはこう言ってもいいだろう。世界では相対的なものはつねに絶対的なものと等しいと。ここでダーヴィト・ヒルベルト(1862-1943)が証明したある愉快な定理を思い出す。ヒルベルトの定理によると、無限集合では、部分は全体に等しい。どちらも無限だからだ。世界という条件においても、部分は全体に等しい。ここで部分という語は時と場合に応じて、わたしの生まれ故郷、わたしの祖国、わたしの(一人または複数の)恋人、わたしの仕事、わたしの一生、わたしの意識などで言い換えることができる。少なくとも、わたしたちはこれを世界のなにとも取り替えない。これは、比較できないもの、同じ尺度で計れないものだからだ。実際に、本人の気持モラルでは、その価値は無限(immense)である(語源であるラテン語のimmensusとは、限りがないということだ)。もちろんその物理的な大きさが有限であることはよく承知しているのだが。レンガなら、そして場合によっては銀河でも、帳簿に記帳することができる。しかし人間というモラルの生き物、際限のない形容詞をいくらでも用意しているこの生き物は、記帳されたがらないものなのだ。

風土学の視点からみれば、地理学の扱う世界と愛をさけんだ某映画のタイトルのような個人的な世界は、前者に後者が史上生まれた人類の数だけ重なった同一の世界に見える。

世界(観)の最少単位は1人分

一方、今日の日本では近代化以前よりもエゴイズムを肯定する言動が目立つようになり、人の宇宙化はかなえられ難くなっているように見受けられる。

p.343 近代とは、どの社会においても、風物身体に逆行するものなのだ。

風土学の視点からみると、近代思想における主客を分離した個人主義とそれを論拠とする諸近代的思想は、その倫理的側面における問題より前に、現実の認識の上で(物事の背景をあえて無視しようとするという)欠陥をもつ

近代的視点はたとえば宗教を、非合理な営みとして否定する。
古来、宗教は、人々の衣食住の様式と共に支え合い補い合って、独自の視点から共同体の宇宙化を強く促すと同時にその社会的身体を束ねるという2つの役割を同時に担い、人間の世界観形成と人間的成長を健やかに導こうとしている。

p.228 宗教(religion)は二重の意味でreligioである〔ラテン語の名詞のreligioには、「結びつける力」と「聖なるもの」という意味がある〕。宗教は、人間の動物身体によって物質的に分離されている社会的な存在を集めるからであり、物の物質的な形式を、聖なる霊性の次元に向けて超越させるからである。

そういえば僕の知り合いに、学生のときに四国遍路をしたことがきっかけで「社会に出てちゃんと働いてみよう」と思い立ったという人がいた。
彼は仏教徒ではなくただ興味をもってやってみたそうだが、その体験はやはり宗教体験に数えられるだろう。
見知らぬ人たちから特に理由もなく(彼がかわいそうに見えたからとか助けを求めたからとかでなく)「こうするのが当然だから」「今ちょうどみかんを持っていたから」といったさりげない態度でお接待を受け続けた日々が、「世の中ギブ&テイクばかりじゃないのか!」と彼に気づかせてくれたという。
彼曰く、初めは「自分は相手に何もしていないのに、なぜわざわざ」と、不公平感のような強い抵抗感を覚えたらしいが、
→毎日ちがう人から、かわるがわる、無理なく、名前すら問われることなくお接待され続ける
→そうしてこない人は、たまたま持ち合わせがないとか、俺とは他のことに気が向いていたからではないか?
→つまりお接待してくれるのもしてくれないのも「たまたま」じゃないか!?
と考えるようになったとのこと。
また逆に、自分が世の中は「ギブ&テイク」つまり人間の恣意だけで動いていると無意識に思い込んでいたことに思い至り、憑き物が落ちたような心持ちになったそうだ。
彼の場合は「風土」の宇宙性にただ気がついただけで実感と言えるほど、つまり人生観をガラリと変えるほど深い感触を得たわけではないようで、彼の生活態度は別に整っていないし物財面でシビアな態度をとられることも多いのだが。
それでも、以前はこんな格差社会で真面目に働くなんて馬鹿のすることだと言い切っていた人が、変われば変わるものだなと思った。
宇宙化とは裏返せば、「自分(たち)にはどう努力してもどうにもならないことがある」という通常は後ろ向きにとらえられる真実を前向きに実感できさえすれば(必ずしも何か具体的な事物を通じなくても)事足りる、ともいえそうだ。

しかし、宗教に救われなくても人はそれぞれに宇宙化をかなえ、共同体と同化しながら自分らしく人間になることができる。
前に述べたように、たとえば菌群を通じて、たとえば職務に身をささげるという生き方において。
それらはどれもみな、ベルク氏が「象徴を通じて物を体内に内射する」「人間の身体は風土を宇宙化する」と表現した現象である。
人間一人ひとりが自身の本質から自分のいる場の背景を通じて何を宇宙化するかは結局みな異なり、それが人間一人ひとりの個性というものを形作っている。
人類がホモ・サピエンスになって以来これまでずっと、人間は自身の属する共同体の一員として、また自身の主として、そのように人生を営んできたのだ。