地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 実存するということ

宇宙化は偶然と必然の間で起こる?

人間以上の力を実感できるか否かが、その人の宇宙化成否の分かれ目である。
本人の精神性が優れているだとか先人の経験を教育を通じて教わるとかそれを促す要因はいくつもあるが、最終的には「理屈を超えた実感」という要件を満たす必要がある。

p.144 宇宙とは、単一性であると同時に全体性でもあるという特異な存在者であり、自己以外のものに関連づけることができないものだからである。

なぜならつまり、それは絶対に、論理的には説明できない(認識不能な)ことだから。

よってその実感の獲得には自力他力を問わず人間自身には制御しがたい面があり、それがいつどういった状況で何において起こるかは運にまかせられるところがある。
たとえば九死に一生を得る経験をした人がその経験ただ一つによって価値観や行いを大幅に改善することがあるのは、そのせいだと考えられる。
実際のところは、人が宇宙化するきっかけ自体は世の中にたくさん転がっているが、それを自分のモノにできるかどうかということの方が運にかかっているのかもしれない。
ベルク氏はそのことを、ある人と物が出会った際に、その間に物質的・技術的なつながりと象徴的なつながりの両方が発生し、その両方の論理が両者を結んで発生する偶発(偶然と必然の中間)であると表現した。

p.356 風土エクメーネと歴史の偶発性においては、現実はこの二つの論理の間のつねに独特な、、、関係から生まれるということだ。

人間は宇宙化がかなうとどうなるか

人間は己と世界の宇宙化が達成された時に初めて動物身体・風物身体の両方のすみずみまで行き渡る感覚を得て、畜生並の生感覚を得る。
(ただしそれでも、風物身体のうちでも本人にとって重要な意味をもつ(もし失うと致命傷に至るような)事物と、それほど重要ではない事物の区別はあると思う。)
人間は発達した大脳をもつせいで、そこまでしないとただ生きているという実感すら覚えられないように生まれついているのである。
動物は己の死や生の限界を感じないが故に意識の上では無敵であり、人間はその種の限界を感じるが故に生きること・死ぬことへの不安感を感じている、ともいえる(客観的に見れば動物も人間も生まれてから死ぬまで絶え間なく命の危険にさらされている)。
しかし人間は宇宙化がかなえば、畜生並の無敵の生感覚を得ると同時に、畜生より高次元の生を生きることが可能になる。
宇宙化をかなえた人間は自分の認識する世界全体(風物身体)を自分の体も同然と感じるため、自身(本体)が傷ついたり死ぬことをネガティブに感じなくなる。
そのポジティブさの根拠は、自分の風物身体は子孫に受け継がれ他人に生きられ続けるだろうという確信である。
その信念のゆるぎなさは、本人直系の子孫の有無に左右されない。
自分の用いる言葉も技術も、自分の共同体内の他人全員と共有しているものだからだ。
宇宙化がかなった人間とまだかなっていない人間との人間性の差は、非常に大きい。

(図)宇宙化を目指して広がる人間、宇宙化して世界観に「おもむき」一定の方向づけをする人間
手袋(スライム入れる)+地面に立つ人形で表現するか
・エゴイズムの人 手袋の外が世界
・主体性はあるけど宇宙化されてない人 ふくらみきらない手袋
・宇宙化される瞬間 手袋の上方に不思議な力、手袋を破ってスライムが噴出する
・宇宙化された後 手袋がスライムでパンパン 上方の力に向かって噴出し続ける(届いてない)
・主体性のない人 「わたしには羽が生えてる」足の下にスライム

世の中いろいろな人間がいるが、その中でもプロフェッショナルとは仕事において宇宙化される(同時に仕事の対象を宇宙化する)人種である。
言い換えると、プロフェッショナルとは、仕事に携わっている時に特にその人らしくなる(仕事の対象を対象らしくする)者である。
そして、そうでない人も含め、文明に生きる人間(自ら文明を遠ざけエイリアンになろうとする人は除く)は全員、自分の外の物において森羅万象を感じ、他人とその過程を共有し、物において共感することで自分らしくなること、何かを宇宙化することを求めながら生きている。
もし、ベルク氏のいう「人間存在の構造契機」つまり人間性の原点が風土性のとおりならば、ということだが。
この人間の器質的な願望が、この世界を今日のような姿にしてきた原動力だった、ということになる。

ベルク氏はこの、人が物を通じて自分らしい人間と成ること、同時に物がその本性と生態系と文明(人間集団の風物身体における発達過程)における背景の積み重ねの果てにその物らしい物と成されることを同時に実現する運動(「風土」の身体化と宇宙化)、つまり人と物を地理・歴史的に結ぶ「として」が、哲学用語「実存する」の表現してきたことにあたる、と主張する。

p.50 『ティマイオス』では「物そのものにかかわる物の比例(auto pros auto summetria)」という逆説的な表現があるが、わたしはこれもこの方向で解釈したい。風土エクメーネの視点では―プラトンとはかなり異質な視点だが―この比例(シュンメトリア)とはすでに述べた〈として〉(en-tant-que)のことである。これは自体存在とのへだたり、、、、、、、、、、であり、知覚できる世界においては、これが言語に先立って、物の意味の基礎を作り出す。文字通りの意味では、これは物の実存(外に立つこと)だ。わたしたちと出会うために、物はみずからの外に出る。言い換えると、それがその現実なのだ。

(注32 …風土エクメーネ存在論では、知性で認識できるものそのものが、人間の存在を想定する。純粋な実在、物の純粋な自体存在は絶対的なものであって、これはほんらいわたしたちには考えることのできないものである。このように、人間が物と共存する世界の現実の基礎となるのは、具体性における、すなわち歴史性と地理性の共同の封土=動性における純粋な自体存在とのへだたりである…)
p.52 物理学と現象学的なものを結びつけ、自体存在と想像的なものを結びつけ、知性が認識できるものと感覚が認識できるものを結びつけること―これが実存における〈として〉en-tant-quwの力である。これが現実の力なのだ。


人間は誰でも多かれ少なかれ現実を認識している。
つまり誰でも多かれ少なかれ、上のように実存しているとベルク氏は主張する。
それは「知性が認識できるものと感覚が認識できるものを結びつける」こと、自分が知性をもって認識できるものに意味を感じることである。

そして人と物が実存するために欠かせない地理・歴史的な「として」すなわち意味=おもむきをそなえた場こそ人間のすみかにふさわしい場、「風土」の総体である風土エクメーネである。
風土エクメーネはベルク氏が風土ミリューという個々の地域性のあり様を分析して導き出した(個々の地域性から帰納した)、人間全員に共通するその世界観という概念、その必須条件である。

p.22 風土エクメーネとは、人間の風土ミリューの条件の全体である。人間の人間らしさはここにある。ただしこの全体は生態的であるとともに物理的でもある。すなわち風土エクメーネとは、人間存在のすみか(oikos)そのものである。おわかりのように、この立場に立つということは、人間存在のすみかが言語のうちにあると考える哲学に反対することだ。また、わたしたちの身体に固有の動物性を否定することはできないのに、こうした哲学と同じように文化を自然から切り離してしまおうとする人間科学に反対することでもある。

人間は実存を達成することで、自分の限界を感じながらもその先を世界のはてに目指し続ける動機モチーフを自分の風土エクメーネに見出す。

p.117 風土エクメーネとは、測定できるものと、同じ尺度で測れないものの二重の次元を、存在論的にあらわにするものである。風土エクメーネの限りのない多様性は、まさにこれによって生まれる。風土エクメーネにおいては、地平の手前と地平の彼方に、つねに同時に複数の、、、真理がある。それは―これが第一の真理だが―わたしたちのすべてが、古代の中国の「王」のように、大地に足をつけて、空に頭を向けているからである。物質的な存在であるとともに、、、、、精神的な存在であること、それがまさに人間の条件なのだ。