地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 実存の内容から倫理のあり方を考える

実存は具体的な「ここ」でしか達成できない

世界観の宇宙化がかない「人として実存にめざめる」ことは「自分にとって〇〇がここにあること」に気づくことであるとベルク氏はいう。

p.18 「あれではなくこれがあること、あそこではなくここにあること」―この表現が、地理学だけでなく、存在論の基礎となるのである。この表現は実は、人間存在が実存にめざめた瞬間に口にすることができる最初の言葉である。

自分がなにか抽象的な広ーい空間(近代思想が前提した空間、たとえば昨今多くの日本人が買い物をする際に想定しているような世界)に住み、自分が何をしてもしなくてもこの空間に影響はなかろうと感じている限り、その人に実存はかなわないとベルク氏は言う。

p.19 わたしたちの実存の本質は、この〈そこにある〉の外では、もはやなにものでもない。

人間の住むこの世界は、素直にとらえれば誰にとってもごくごく具体的である。
今ここの具体的な状態があって、自分にとって何らかの意味をもっている。
その意味についてさらに地理的・歴史的に考えてみれば、その来し方行く末も具体的にそこに現れてくる。

その事実を(たとえばその具体的内実や不確実さが耐え難く感じられるせいで、またたとえば個人的な願望の実現を優先させようとするために)受け入れることを拒否し、物事を実際よりも単純化してみせようとして、自分の相対する物事が具体的にもつ背景に気がつかない、見て見ぬふりをする、知っても忘れるといった消極的な行為は、僕らが考えているよりも深く僕ら自身の精神衛生(実存の成否)に影響を及ぼしているということだ。
風土学によると僕たちはみな無意識に、死ぬまで何が起こるかわかったものじゃないこの多様性あふれる世界に生きる自分の生涯に不安をおぼえている故、いつか実存をかなえて何があろうと無敵な心持ちで暮らせるようになることを願いながら生きているはずである。
その実存の成立条件たる現実の具体性・多様性の容認を、その願望より浅い意識上に発する欲求にまかせて拒否することは、実は人をそのより深い無意識の欲求に逆らわせている。
一度認識した物事をまるでなかったことのように忘れることは、たとえば自分の外の半身(も同然の事物)が心に傷みを覚えるほどに損なわれた人が、それに連なる内なる半身(本体)にまで不調をきたさないよう発動すべき人間性である。
内外の健康に恵まれた(つまり日々問題なく暮らしている)人が物事を忘れたり見て見ぬふりをすることは、かえって本人の心身を損なう。
意識するしないにかかわらず、僕らが考えているよりもずっと深く。
その行為は以前の記事で述べてきた日本の若者の行動様式に現れているように、その認識の欠けを埋め合わせようとする代替行為の誘因となる。

たとえば話を仕事の現場に絞ると、ある業務が行われる現場で、その業務の背景で人知れず動いているエネルギーやお金や工程の進捗などいろいろなものの流れをコンピューター等機器や紙媒体などに図や数値として明示し、業務関係者全員で情報として共有することを「見える化」という。
業務の現場で「見える化」をすると客観的にその業務の効率性をみなおしたり問題点を見つけることをしやすくなるのだが、それらの他にもその現場の士気が上がるというメリットがある。
業務にあたっている本人が、自分のしている作業の結果だけでなくそれまで認識できなかった諸行程のあり様を認識できるようになることでそこにやり甲斐を感じたり、自発的に自分の作業内容を改善しようとし始めるのだ。
極端にいえば、薄暗かった室内を明るくしてその様子を見えやすくするだけでも、掃除の行き届き方に違いは出てくる。
意識上にそうしたいという欲求がなくとも、人間の認識が届く範囲まで人間の身体性は広がり深まる。
ということは、既に見えているもの(または見えてはいないが見ようとすれば見えそうだと感じているもの)を隠蔽し「見えない化」したら、これとまったく逆のことが起きるのではないだろうか?

僕が思うに、なにか大切なものを失うなど辛い思いをした人が、その辛かった経験を乗り越えようと「何者かとして」自分の外の半身を他の事物において再生する時にはきっと、その事物における共にいる健康な人との共感覚がその助けとして必要とされる。
彼らを共感において支えることは彼らと半身を、そして運命をも共にする健全な人々の義務であり、その行為が社会にとって真のセーフティーネットとなる。
風土学の視点から見れば、それこそが人間全員が地理的・歴史的に発達させてきた技術と象徴の体系すなわち文明の本来想定していた目的である。

地理学の視点から考えると物はなんでも世界に偏在する( 遍在はしない)、だから…などとは本書のどこにも書かれていないが、記事冒頭の引用文はつまりそう言いたいのだと思う。
必要十分な品物が誰にでも(お金さえあれば)手に入るべく店舗が24時間営業し続け、道端でさえ24時間飲み頃の温度に保たれた飲料が提供されているような場所(状況)ではどうしても忘れられがちだが、本来この世界で人間に(自分に)認識できる事物は(その背景まで考慮に入れれば)すべて成り難かったし、有り難かったのだと。
実存にめざめるとは、「そこ」でしかかなわない実存の本質とは、人間が自分の世界観に限界を認め、「ここにこれがある」のは自分(たち)のためではない、それは自分の世界観に関係なくたまたまそこにあるにすぎないという客観的事実を認めることである。
僕たちの世界観の淵は、僕らの視界の端にあるのではない。
その限界は常に僕らの眼前に、自分の体を含むあらゆる物にそびえているのだ。
人間の手の加えられていない自然の影は人跡未踏の地などへ赴かずとも、常にその日常の事物もとに文明の向こう側に透けて見えている
ベルク氏曰く自分が何か「として」の総体として認識している世界は常に「自体存在とのへだたり」においてあると気づくことである。

p.117 二人の人が同じ物理的な環境を解釈しながら、さまざまな中間的な見解がありうるにもかかわらず、まったく正反対の理解をすることがあるのである。こうした問題には、普遍的なものは存在しない。普遍的なところに進むためには、人間的なものを排除しなければならないが、これは自己矛盾である。人間的なものを含まない宇宙=普遍など、普遍的なものではないからだ。しかし科学的な抽象を実行するには、この不合理なこと、この虚構を想定しなければならない。これがどれほど不合理なものであるかは、この抽象を逆転して、それを風土エクメーネに重ねてみれば明らかになる。実際、理論ではなく実践において、<他性>を廃絶しなければ、こうした抽象を行うことはできないが、この<他性>こそが、人間の世界において人間性を作り出してきたものなのである。人間性とは、<他なるもの>を<一なるもの>、すなわちわたしという暴君のモデルに還元しないということにほかならない。
人間は生まれた時から、自分の世界観に淵を認めるまで、すなわちその宇宙化をかなえるまで、すべての物や他者について自分と同一視できる(自分と共感したり自分の味方についてくれる)可能性を無意識下に信じて自分の世界観を広げ深める。
その事物の身体化はまるで、事物を引用にある「わたしという暴君のモデルに還元」しようとすることと同義であり、その時点ではまだその身体化された環境たる「風土」には生物の身体にふさわしい秩序がそなわっていない。
人はたとえ物や他者が自分の意に反する形で認識されても、自分の認識自体に限界を認めるまでは無意識下においてそれらと同一化しようと試み続けており、(それを覆してくる相手やそれを受け入れられない自分のせいで)同一化が失敗する際には負の感情を抱き、時に暴君と化してでも同一化を成し遂げようとしさえする。
僕らはもちろん日々客観的な事実を学習するが、実は僕らが自らの主観性を自覚するまで、その客観性は認識された時既に「風土」状態つまり僕ら自身の属する関係の網の目の延長上に、風性にくるまれた状態でしか、客観的なものとしては僕らに認識できていない。
人間の主観は人間特有の文明レベルでも、より下位の生物レベルでも常に眼前にあり、さらに下位の物理レベルに達すれば除くことはできるがそのレベルでは主体として思考することがかなわない。
人間が客観的に公正な視点を獲得するために真に必要なことは客観的事実の学習ではなく、己の主観に、それが課せられている限界に、あくまでも逃れ得ないその主観において気づき認めることである。
人は、思いもかけないタイミングで事物を宇宙化したり宗教の助けを借りることでその世界観の極みに達すると、「実存にめざめ」以下のことを芋づる式に理解する。
  • 自分には制御も理解も認識もできる可能性のない力の存在と、その力から自他への一方的な(自分の意思では逃れがたい)関与
  • 自分の認識していた世界は無限ではなく限りある「そこ」にすぎなかったという事実
  • 客観的な可能性には限りがないとしても、自分に限界を克服できる可能性には限りがあるという事実
  • 自分の認識しているもの(事物、他者、自己 等)は自分の認識している通りのものではないという事実=自分の認識(世界観)と客観的事実(大文字の世界観)の隔たり
  • 自分の感じている物の意味はすべて自分の属する関係の網の目を通した「として」であり、客観的な物自体(本書いわく自体存在)とは異なるという事実
  • 自分の見ている世界は大文字の世界に内包された小さな世界であり、他人も同様に別の小さな世界を見ているという事実
  • 自他の客観的な多様性

人間にとって世界の宇宙化が制御しがたいのと同じ流れで、生まれた時から本能的に認識対象を自己の身体と同一視しようとしている人間にとって、自他の多様性を認める態度も教育や自身の心がけなどでそう簡単に獲得できるものではない。
他人が教育として人間にはそのような限界が存在するという事実(概念)を説くことはできるが、結局その限界の実際のありか本人が自身の主体性を発達させる過程で自ずから実感することでしか定まらないし、その実感なくしてただ抽象的な理解の上に実体を現すことはあり得ない。
人間はみな風土性という同じ構造において個体として異なる感覚をもち、まず自らの主体性を確立してからでないと他人の身になる、つまり他人の主体性を理解することはままならない。
それ故、友だちとけんかをした子供を「相手の身になるように」と諭すことは、自ら主体性を確立していると自負している大人の傲慢であり、論理的に誤っている。

これをかなえることは解脱や悟りと呼ばれる境地だと思われるかもしれないが、実存はそれらとは異なる。
解脱や悟りとは、自身のあり様を含む客観的事実を理解した上でそれを人間の現実認識より優先させようとして、現世の生への執着を捨てようとする覚悟であると思う。
一方で本書の説く実存は、引用のとおり「人間的なものを含まない宇宙=普遍など、普遍的なものではない」と、人間の目前の生や営みを客観的事実よりも普遍性において上位に置き、悟りと同様のあきらめの境地に達しながらもそれ以前と同様に生きる意気地を捨てまいとする「自分の身の丈を認める」覚悟である。
ベルク氏は人間の宇宙観は人間に思考できる客観性を超えていると主張し、前者が後者以上のものであると主張する。
僕はベルク氏の語ったコヒーレンスの理論を十分に理解できていないし、当然ベルク氏がそれを用いて語った主張の妥当性も判断できないが、とにかく人間の認識する客観性と人間の認識している現実は断じて異なるし、人間にとって現実には価値(意味)があり客観性は無価値(無意味)なため人間が客観性を現実に優先させる態度は自身の生のおもむきに反し理不尽だと思う。
自身の主観のせいでどれほど客観的事実とは隔たった認識しか得られないにせよ、自身がそのように生まれついたということもまた客観的事実なのだから、人が後者の客観性を否定してまで前者の客観性を追求する理由はない。
人間はもしも自分の生を肯定しながら実存にめざめたら、自分の存在は認識不能=説明不要な力に支えられていると感じ、自分と同様にその力が生んだと考えられる世界の事物すべてを有り難く価値的に感じるようになる。
実存をかなえた人はそのあきらめと肯定感と元からもつ自身の完全実現への希求から、自身の偏りを含めて自分に認識できる物事全てから目を背けようとしなくなる(人は実存にめざめていない=無意識下にあらゆるものと主観的な同一化を目指している段階(いまだ身の程知らずの状態)では、物事を自分にとって受けいれ易いように限られた面で切り取って認識しがちなのだ)。
そして風物身体(自分の世界)に快・不快を問わず感覚を行き渡らせそれを自分の半身も同然と成しながら、奇跡への畏怖により風物身体を共にする他人を自分の運命共同体として認め、敬意を払うようになる。
風土学の視点から見ると実存とは、人が客観的かつ認識不能な形で存在する自分の動物身体とその能力を超えるために認識の上で感知する自分の風物身体との結合体という身の「程」を自ら認め、そのような身をもつ客観的かつ不合理(無意味)かつ主観的な、つまり矛盾を抱えた一個の生物として(主観と客観との行き来において)意味ある生をまっとうしようと、主体性を確立しようとする運動である。

個人生活の本質⇒実存⇒社会生活の本質=倫理

物のありがたみの実感は、本人の内面にとどまらずその行動を変え、世界のあり様を変えていく。

p.21 本書では、現象学を超えたところで、実存の展開というこの客観的な現実を示したいと願っている。そのためには、概念の語源の分析や、物の非物質的な側面の分析で満足していることはできない。人間の実存はかならず、制度と構築物のうちにも存在するものである―建物、組織、さまざまなネットワークのうちに。

こうして地理学者ベルク氏のごく現実的な物事の分析と再構築はハイデガー他による実存主義哲学を経由して、倫理学の範疇に突入する。
僕たちの生きている文明社会がみな、風土性という原点にたった人間性から実現されているとすれば、その社会の論理的な構造は風土性本来の目的いかにこのメンバーみんなの自由を実現するかを達成する論理、すなわち倫理を原点とするのである。
人間はその風土性ゆえに実存する、文明と呼ばれるその実存の展開はもともと倫理的である、すべての文明的産物はそのようにみなされ整備されるべきだ、とベルク氏は主張する。
一例としてベルク氏は自身の専門とする都市における風景と建築物のあり方について、都市の伝統的な風景を阻害するような外観をした建築物をその辺りのおもむきを無視して建てようとする人々を批判し、下のように述べる。

p.408 人間の風土ミリューは、空間の中だけでなく、時間の中でも織りあげられていることを確認したいのだ。実存することは、延長だけにかかわるのではなく、持続にもかかわることだ。だからこそ、共通の存在を侵害するような形で、都市の持続を切断してはならないのである。わたしたちが過去から受け継いだものは、わたしたちの文化であり、人間がたんなる動物であることを許さないものだ。わたしたちは動物とは異なり、子供を育てるようにして、この遺産を次の世代に引き継いでいかなければならないのである。それが人間の義務ということだ。

 ―それでは創造はどうなるのか。

 ―人間の創造は、神の行為とは異なるものだ。無からではなく、実存のうちから行われる。人間の創造は風土ミリューを想定し、わたしたちは他者と風土ミリューを共有する。他者とは、わたしたちに似た者たち、わたしたちが実存するために、交信し合う者たちのことだ。建築は、人間存在に必要なこの交流のひとつの形式だ。他のものとは異なる固有の交流を行いながら、建築はその風土性を、風物身体を証言するのである。人間の存在はその動物身体のトポスだけに制限されないからだ。都市とはとくにそのようなものである。だからこそ、都市の形式を尊重しなければならないのだ。

 建築の形式は、中性的な拡がりのうちにある孤独な対象の形式には還元されない。同じように、建築家の創造の行為も、一方的なビッグバン、、、、、によるものではないのだ。建築家は、人々や形式との交信と交流の持続のうちにいる。交流は、存在のすべての尺度において行われるのだ。

前記事でも述べたが、実存がかなった人とまだかなっていない人との人間性の差は、非常に大きい。
実存がかなっていない人は自分の身体感覚が自分の住む世界に行き渡っていないため、幸福主義を支持しようとするとどうしてもなんらかの快楽主義を目指すことになる。
実存がかなっている人は、自分の個人的な幸福を追求するためにはどうしても自分のいる場の倫理をも考慮に入れ、その場と自分がいかにあるべきかを同時に追求することになる。
実存がかなっている人は自分に認識できることすなわち「風土」の風性も土性もすべて認識しようとしているので、自己中心的でありながら、自分自身の実現のためにその風性に含まれる共同体(に属する他者)の利害を聞き入れようとする態度を自ずからとるのである。
だから、人間同士が現実において利害のからむ話をするときはまず、互いの実存正否、つまり互いの認識に欠けた面がないか、物の本質と関係性の両方に配慮しているか否かを確認しながら、具体的な話をするのにふさわしい姿勢をとり合おうとする必要がある。