地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 実存と他者

僕にとって僕が実存するメリットは?

以前、人間が物の本性に触れる手段は文明を通じて体の外の物に通じる他に、瞑想を通じて自己の内面に潜む本性に至る方法があると述べた。
両者は手段は違えど求めることは同じ、主体性の確立であると同時にまた「実存すること」であり、それに不可欠な「説明不能(または不要)な力」の実感なのだ。

p.279 隠遁者が探し求めているものは、自分の息と宇宙の息の一致であり、同一性である。…動物身体の息吹と風物身体の息吹が一致するときに、人間の実存はその真理に到達する… ここに近代の大衆が自然に向かう無意識的な動機があると言えるだろう。

こうして、近代化により他人からも物からも区別された日本人は日常生活を離れて山や二次元空間の中へ「自分が真に実現する感覚を与えてくれる何か」を探し歩くようになり、果ては日常において近代化が促した物欲や滅菌を否定して前近代の先祖に似た価値感を独自に構築しなおそうとし始めている。
みんなそれぞれ、このままならない現実において、すべての物事において自然に「ありがとう」と言える無敵の境地に達したくて。
この一見無秩序なほどに複雑な現世に隠されているはずの原則が見つかれば、自分が生きている意味がわかるかもしれないと期待して。

どんなに賢く大きな影響力をもった人にとっても実存するということは本源的だがしかし、もとを正せばどこまでも個人的なわだかまりが解消できる、といった程度のことだともいえる。
ベルク氏がいうとおりそれは「自分が存在するという感覚」を得ること、「生きることの幸福さということでさえある」「風物身体と動物身体」の調和であり、自分の内外の身体が健やかであるという状態、ただそれだけである。
そして実存をかなえてその姿勢を保って(健やかに)生きようとすることは、現実に発生し続ける有益/無益/無害/有害の事象を感覚において受けとめながら、自分らしさとその場らしさ(その場にいた/いる/来るだろう他人全員とその場の事物すべてと自分との関係)の方向性の調和を保ち発展させ続けようと試みることであり、実際のところ実存を放棄した生き方に比べてかなり煩雑で面倒な生き方となる(だから風土学と同様に実存の境地を志向する仏教徒は修行を必要とするのだろう)。
いまだに世間を気遣いながら生きる農村の住民は「スローライフ」を送っていると一般にいわれるが、僕はあのような生活でスローになるのはその進歩の方であり、自然と他者を気遣いながら都会より辺鄙な場所で営まれるその生活の内実はむしろ都会の生活よりも慌ただしいくらいだと思っている。
そのような暮らしを面倒だと感じるか、豊かだと感じるかは本人の主体性いかんによるが、人間の器質の上ではたとえどんなに面倒でも認識できることをできる限り直視しようとする態度の方が、本人の心身にとってより健全である
主体的に実存を目指す態度は、人を人間的に成長させながら他者と共に健全に(必要十分のストレスにおいて、とでもいえるだろうか)生かそうとする。

上の文章の「実存」は、人間の風物身体と動物身体両方の「健康」とまったく同義である。
人間は健康でなくても、また健康に気遣わなくても生きていくことはできるため健康は生活の必須条件ではないが、それは意識的でもまたは無意識かつ偶然にでも、実現できていた方が本人にとって主観的にも客観的にも健全なことである。
ただしある人の動物身体の健康が主に本人に関わる(家族にも関わる場合は生命保険に加入したりもするが)一方、ある人が実存しようとしているか、すなわち他人の価値観を受け入れどうにかして自他の共感を実現しようとする姿勢をもつか否かは、むしろ本人に関わる(本人と風物身体を共有する)他人にとってより重要な事案であるといえよう。
もしある人が実存しているように見えて実は真に物事の多様性を受け入れていない(ある意味突き抜けているけど実は認識が一部偏っている)という場合、他人にとってその人と関わることはかなりの厄介(もしくはハイリスク・ハイリターンな賭け)事という様相を呈する場合が多い(そういう人に嫌われると厄介なことになりがちなので)。
明らかに実存をかなえていない人や実存を拒否しようとする人と関わることは、言わずもがなである。
ただ、実存の成否は別として、今よりさらに実存しようとする意思をもつ人の方が、自分と異なる価値観をもつ他者との対話に積極的つまり現実的であり、風物身体を共にしやすい。
拙ブログで繰り返し述べてきたが、人間がいかに生きるかということについて意味を持つのは人間の本質や状態ではなく、それをふまえた本人の性質の方向性なのである
他者と風物身体を共にするとは、互いに別の器官として、ある共同体を健全に運営し成長させようとする行為である。
その成功のためには互いの異質性の理解と共に、互いが主観においてその共同体内における事物において共感を覚えること、というかある事物について感じる意味=おもむきを他者のそれと併存させる(ぶつからせない)こと(、そのために自他を同時に支え時におびやかす認識不能な力を畏怖する感覚も)が必要である。
それらをおさえていれば、たとえ自分と他者が利害の対立する関係になったとしても、または性向がまったく一致していなくても、並行して共同体の仲間でい続けることが可能である。

他者を排除・抑圧したくなる心性

人間の風土性の原動力はある意味「この世の原理」(実際は絶対に理解できない運命)を理解したいという願望であるが、その願望にとって事物や他者の多様性は意識上で端的に障害と映る。

p.114 宇宙=普遍とは、すべての物がそのふところのうちにいることを許すものである。しかし語源的には、この宇宙=普遍の統一性とは、多様(divers)を暗黙のうちに否定する〈一性〉であることは明らかである。だから宇宙=普遍に到達するためには、現実の多様性が邪魔になり、これを克服する必要があるということになる。

たとえば利権を手に入れその力を独り占めしたがる人も、戦争で他民族を制圧しようとする人も、科学技術で人間の限界を超えた願い(たとえば不老不死やクローン人間の作製など)をかなえようとする人も、自分の人間性を部分的に発揮している。
そして人間はもちろん動物の一種でもあり、人間特有の実存の実現の他にも生存に必要な欲求をもち合わせている。
彼らは自分の人間としての実存を待たずに生物的な欲求の満足や世界の秩序の掌握を優先させ、(自分に理解し難い)一部の他者との共感覚を切り(理解しあうことをあきらめ)、彼らを排除することもむべなしと割り切り、世界の多様性を否定しながら自分の世界観に自分のできる範囲で秩序を築こうとしている。
そのように築かれる非宇宙志向・自己志向気味の秩序は、築くためにも維持するためにも(大勢いる)他人(の一部)に犠牲を強いる。
そのふるまいには共同体(風土ミリュー)がそのメンバー以外の生物に犠牲を強いるのと同種の理屈が適用され、そのふるまいを論理的に支える。
世界観において宇宙化を達成したと自ら表明している人であっても、そのふるまいにおいて一人でも他者を(対話において非難したりするのはともかくとして)まったく排除しようと(共存を拒否)していれば、実存は達成していない。

p.117 普遍的なところに進むためには、人間的なものを排除しなければならないが、これは自己矛盾である。人間的なものを含まない宇宙=普遍など、普遍的なものではないからだ。しかし科学的な抽象を実行するには、この不合理なこと、この虚構を想定しなければならない。これがどれほど不合理なものであるかは、この抽象を逆転して、それを風土エクメーネに重ねてみれば明らかになる。実際、理論ではなく実践において、〈他性〉を廃絶しなければ、こうした抽象を行うことはできないが、この〈他性〉こそが、人間の世界において人間性を作り出してきたものなのである。人間性とは、〈他なるもの〉を〈一なるもの〉、すなわちわたしという暴君のモデルに還元しないということにほかならない。

引用の最後の文は、先頭に「正しい」とか「本来の」とつけた方が妥当すると思う。
人間性の発揮のしかたはそれこそ多様で、暴君としてふるまうことも畜生にはかなわない人間の性質(「風土」の身体化)ただし部分的な人間性に数えられると思うからだ。
しかし風土性全体(「風土」の身体化及び宇宙化)が指し示す人間性の原則は、ベルク氏の言うとおり唯一「自他の多様性を認めること」だと思う。
人間は、己の主観に埋没している限りは気づきようがないが、客観的に見れば誰しもが世界の多様性をさらに深めている張本人であり、「風土」は人間自らがその多様性を発展させるために発生させているのだから。
僕たちは(冒頭引用文の隠遁者を除いて)全員、自分のいるその場所で他人と「風土」を通じて実存して、他の誰とも違う自分の生きている意味を知りたがっている。

以上、4記事にわたって、僕が解釈したベルク氏提唱の実存の概念を紹介した。
身も蓋もない描写ばかりしてしまったが、世の中から顧みられることの少なかった本書の実存の描写を少しでも理解してもらいたく、おおまかにでもいいから読んだ人全員に意味が通じることを目指して書いた。
本書が提示した実存の様態は、あなたの見ている現実を言い当てているだろうか?
僕には、本書の他にこの概念を扱っている哲学書に書いてあることがどれもほとんど理解できないので、学術的にその是非を問うことができない。
主観的または学術的な観点からご意見をお持ちの方は、ぜひ聞かせていただきたい。