地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

5 人間性の全容

人間は「負荷されつつ自由である」

ベルク氏は和辻氏に倣い、風土性は人間性の原点(人間存在の構造契機)であると主張した。
それではその原点から導かれる人間性の全容とは、人間全員の本来的な生き方に共通していえることとはどのようなことか。
本書『風土学序説』に、本書が依拠した和辻哲郎著『風土 人間学的考察』からの引用がある。

p.360 もとより我々の存在はただに[風土と過去の]負荷的性格を持つのみならずまた自由の性格を持つ。すでに有ることでありつつあらかじめ有ることであり、負荷されつつ自由である、というところに、我々の存在の歴史性がみられる。しかしその歴史性が風土性と相即せるものであり、従って負荷が過去を背負うに留まらずまた風土を背負うのであるならば、風土的規定は人間の自由なる発動にもまた一定の性格を与えるであろう。道具としての衣食住が風土的性格を帯びることは言うまでもなく、さらに根本的に、人間が己を見いだすとき、すでに風土的規定の下に立っているとすれば、風土の型はやがて自己了解の型、、、、、、とならざるを得ないであろう。

和辻氏の述べた風土とは本書の「風土」(文明の尺度という風性と生態学・物理の尺度という土性の複合体として分析できる環境)の元祖にあたり、僕らにより親しみのある言葉を使うならば人文地理学の観点からみた自然環境・社会環境であり、上の引用文の風土的は地理的、風土性は地理性と言い換えられると思う。
「風土」においては歴史性と地理性が「相即せる」ことは、以前にも述べた
引用文を言い換えると、人間は地理的・歴史的に(「風土」という構造において)負荷(その「風土」の風土性という型)を負いながら自由に発動する、すなわち個性を発揮して、そうすることで自分自身もその型づくりを担っている、ということか。
「人間の自由なる発動」には、本人がまわりの物を介して他人と共有しているそれらの地理的・歴史的背景が影を落としている(負荷している)。
拙ブログでも人間は「共同体のルールのもとで自由に生きる」「できる範囲で最大の自由を求める」と似たようなことを言ってきた。
これまでまるで僕の意見であるような言い方をしてきたが、実のところは紹介している本にもともとそう書いてあったのだ。
そして「風土の型はやがて自己了解の型とならざるを得ないであろう」つまりそのような型における自由を行使する自分自身も、やがて風物身体すなわち「風土」としてその型の、そしてその歴史の一部となる

歴史的に形成される型において個性を発揮するという姿勢は、たとえば武道やスポーツのたしなみ方にぴったりあてはまりそうである。
そういえば「風土」という物イコールわが身観は、スポーツで用いる用具の感覚にとても近い。
しかし、本書と本書が元にした『風土 人間学的考察』そのような活動に限定した話ではなく、人間活動とそれが前提する世界観の全体に関わる話をしているのだ。
スポーツ以外ではたとえば、前掲の『物欲なき世界』に登場した設楽さんも言っていたではないか。
「働くことは"work"であったり"labor"であったりするけど、"play"でもあると思う」と。

愛の反対は嫌悪ではなく無関心だと言う人がいるが、人が(ただ)認識しているものを嫌悪することは、従来の認識どおり主体が対象に対して感じていると同時に、そもそも主体がそれとどうにか同一化しようとして(感覚的にそれがかなわないで)いるからこそできる(動物には真似できない)反応ではないか。
スポーツの用具はそれを用いる主体に喜びや楽しみを与えるが、僕らのまわりの物は喜怒哀楽すべての感情を僕らに呼び起こし得る。
事物は、僕らが意識しないうちに、人間としての情動も動物以下の情動も区別なく引き出し、増幅している。
人は認識しているものに対して無関心を示すこともあるように、常に人間以上の(人間だけに特有の)行動をとっているわけではなく意識的/無意識に動物以下の(動物と本質的に変わらない)行動もとるからだ。
スポーツやゲームは本能的に戦争をしたがる人間の欲求を肩代わりする行為だという人がいるが、実は逆なのではないか?
人間の営みの本質がスポーツやゲームのようなもので、戦争はそれに人間以前の動物的本能が中途半端に混ざった亜種だったのではないか?
戦争は必ずそれ専用の道具や記号を用いて行われるが、本書の示した学説によるとそういった人間に独特の文明本来の目的は、人間がそれにより共同体を形成してそれぞれより自分らしく生きることだったのだから。
人間が文明を展開しようとする発端は人間に理解できる論理すなわち理屈の通用しない運命への恐れであり、言葉の通じる、つまり理屈の通用するはずの同類への嫌悪や恐れは、本人の実存の不足に起因したその情動の氾濫にあたるのではないか?

地理的かつ歴史的な型(母型)と個性の発揮(刻印)

前にも述べたが、和辻氏は上の文の後でこの文を誤って解釈したような決定論的な主張をする。
しかしベルク氏は上の文章を含む『風土 人間学的考察』の序文をその後の文章から切り分けて、高く評価した。
上の引用部からベルク氏は下のような洞察を得た。

p.360 これが、わたしたちのすべての自然の見方の深いところで、とくに「地理学的」と呼ばれるすべての決定論のうちで表現されている論理なのである。すべての決定論は、人間を自然から説明できると主張する。そして自然について語りながら、自己について語るのである。それはわたしたちが自分の主観性を一方的に投影するからというわけではない。わたしたちの存在そのものの構造が、絶えざる脈動のうちで生まれ、この脈動によって、わたしたちの風物身体と動物身体が、たがいに通態しあうからである。通態とは、わたしたちのコーラ、すなわち歴史と風土エクメーネの偶発性のもとで、わたしたちにかかわる存在が「生成」することである。

ベルク氏は、(おそらく自身がわだかまりを覚えていた)近代(的人文地理学)の世界観の矛盾点を突いた和辻の主張を、地理学者として受け入れてこのように主張した。
僕たちは自分のおかれた環境と、それから一方的にふるまいを決定されたり(環境決定論)そこに自分のイメージを押しつけたり(環境可能論+近代的人間・環境観)という形ではなく、それを自分の一部とみなして取り込んで活動する(環境可能論+人間的主体性)という形で関わっている。
そしてベルク氏は和辻氏の主張を手掛かりに本書に著したような研究を行い、人文地理学が(そしてそれが支える現代社会も)近代の世界観(思想)に代えて継ぐべき新たな世界観(思想)を構築しようとした。

上のベルク氏の引用の話題に戻るが、これによると最初の引用で和辻氏の述べた型は、常に人間の個性の発揮に負荷を与えるばかりのものだと決めてかかってはいけない。
「風土」は目前の交流(個性の発揮)を導くその場の地理・歴史的背景(型)であり、いつしかそれ自体が生まれる場の地理・歴史的背景(型)に変わっていく交流(個性の発揮)でもあり、その両方である
そして「風土」には必ずその主体の身体感覚における意味=おもむきがある
何を型とし何を個性とみなすかは、前に述べた何にこだわって何をあきらめるかを選ぶのと同じ、「どうすることが〇〇(人々、物事、それらが共存する場)らしいのか」つまりその場と自分にふさわしい意味=おもむきを求める人間の主体性、信念の問題なのだ。

たとえば上で挙げたスポーツを例にとろう。
その型つまりルールを直接とりあげるのは歴史的な専門知識がないと難しそうなので、プロスポーツ界の権威がプレイヤーに守らせている規則をとりあげよう。
そのような規則もスポーツ自体のルールと同様に、そのスポーツの保持すべき意味=おもむきの指標として定められているはずである。
たとえば日本相撲協会が力士に「交通事故を起こす可能性があるから」という理由で現役でいる間に自動車を運転することを禁止するような規則は、果たして相撲がその「風土性と相即せる」歴史を認識した上で将来へ向けてそのおもむきを実現し発展させるために設けられるべき型として、適切な規則だろうか。

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そして人間の側にとって「どうすることが自分らしいのか」つまり自分が生きる意味=おもむきは、人それぞれが死ぬまで問い続けるべき問題である。
絶対自分らしくない、嫌だと言い切れることはしない方がいいのかもしれないけど、どんなにわずかでも言い切れない可能性があるのならば、それは試してみなければ、客観的にも自分の目からも本当にそうなのかまったくわからないままである。
ある人間のその人らしさは死ぬまで周囲と続く関係上にあるがゆえに固定したものではなく、またその土台となる要素は前述のように選びようがなく、本人の視点からはその全貌が見えていないケースが少なくない。
それを理解するためには、周囲の事物と地理的・歴史的な関係を結んで、つまり自分と対象がその場の「風土」として関わり合うという経験を重ねることが不可欠である。

人が何かをする意味は、物財的な損得や目標達成率や他人からの評価より、また本人の独りよがりより、それらに先立ってまずその場の述語にあたる歴史(過去と未来)と地理(物理・生態学・文明的な)背景において、主語にあたる人(たち)が物事と関わる際の感覚に、それは何「らしい」ことなのか、として問われるべきである。
何かをする前に、それをすることにどのような意味があるのか、それをするのは自分(たち)らしいことなのか(らしくないけれどあえてやってみる、等も含め)主体的に問うてからの判断でなければ、その人の行動はその人の主体性から、その人らしさやその場らしさを広め深めるという原点から、遠ざかっていってしまう恐れがある。
まるで現在の相撲界が混迷しているように。