地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 社会の「風土」をもし可視化したら -1

近代的観点から見た人間とその幸福度

20世紀末頃まで優勢だった、そして現在も制度上保護されており正面切っては否定され難い近代的な価値観は以下のようなものだ。

  • 人は自分の体をもって環境<地球<宇宙空間の中に存在する
  • 人は物財をたくさん所有していればいるほど幸福度が上がる
  • 所有している、または得られる見込みのある物財が少なく、物財により現在または将来の生活への不安を退けられない人は幸福度が下がる

風土学の視点から見た人間とその幸福度

風土学の視点から見た価値観は以下のようなものだ。

  • 人間の動物身体は諸物の一つであり、その物理的・生態学的ルールに規定されながら存在する
  • 人間の風物身体=ある文化的まなざしからとらえた事物=その場に集う人間集団の意識が、その場にある物を常に自分たちの動物身体に合致させるよう取り込もうとしている
  • 共同体のメンバーは全員、その風物身体において感覚を共有している
  • 人間はその動物身体と風物身体の両方において生きている
  • 他人と共有している風物身体の中で、個人はまるでその一器官のようにふるまう
p.351 風物身体と動物身体は調和することが望ましい。必要な変更を加えれば、この文はわたしたちのすべてに妥当する。この調和とは、自分が存在するという感覚である。生きることの幸福さということでさえある。

人間の動物身体はどれも概ね2m以下ほどの体躯である。
一方それに連なる風物身体(世界観つまり生きる世界、生活圏)の大きさに制限はない。
それは大きくても小さくても、本人の感覚の上で(比喩的な意味で)身の丈に合っていると感じられるほどに本人に生きている実感がわき、幸福度も増す

人間の居場所は自分の認識が届く所まで広がっている

ただしその生活圏と己との調和いかんは、その実体と背景について認識できることすべてを考慮に入れて評価されるべきである。
これまで拙ブログで述べてきたように、人間はもしその認識に漏れがあると、自分の生活の持続可能性をよけいに低下させたり、自分の心身に不調をきたしたり、認識の広さを改善せずにそれらの悪影響を緩和しようとして自分のいる場の倫理から外れた行動をとろうとする恐れがある。
たとえば僕が日本に住み、近所の商店に行き、そこでポルトガル製の菓子を買う(または買わない)行為は、僕の身の丈(風物身体)を既にポルトガルの製菓工場やその菓子を日本の商店まで運ぶ流通網の存在にまで押し広げているに等しい。
風土学の視点からみると、僕はその菓子を目前に認識した以上、その土性(スペック)と風性(背景)を共に考慮してそれを買うことと買わないことの意義を考え、自分にとってより意義のある選択をして自ら実存しようとするべきである。

p.274 仙台に住んでいるわたしにとって、アデリー海岸〔アデリー・ペンギンで有名な南極大陸の海岸〕に飛行場を建設する計画が気にいらないからといって、わたしが騒音やガソリン蒸気の害をこうむるわけではない。近代の象徴的なシステムのために、これらがわたしの動物身体のうちに存在してしまうからである。これらがわたしのうちに存在するということ、それはごく物質的なものである近代の技術システムが、こうした人工の物質や、物理的にわたしに付着するもの(通信網など)を作り出していて、これを再生するということと切り離せない。アデリー海岸は、象徴を通じて、わたしの実存の一部となっているだけではない。わたしが近代文明のうちに実存する限り、アデリー海岸はわたしの現実の一部なのである。

「耳に入ってくる以上は気にかけないといけない」
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「自分に関係があるからこそここまで報道されている」

フードマイレージを意識して地産地消を推進したり、個人的に自給自足の生活を試みようとする人の心の底では上のようなストレスが感じられているのではないだろうか。
ストレスフルだからといってそれを感じないよう自分の実存を抑えようとする(自分となにかしら利害関係にあることを、起こっている現場が遠くて関与しづらいからなどと理由をつけて見て見ぬふりをする)ことは、かえって自身の精神衛生上の健康を損なうことになるのでよした方がいい。
風土学の視点からみるとそういうことになる。
逆に、自分と物理的または精神的に遠い人との利害関係には目をつむって暮らすとして、あなたを人として奮い立たせる動機(モチーフ)たる「として」は、あなたの暮らしの張りはどこからもたらされことになるのか?
意見をお持ちの方は聞かせてほしい。