地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

5 社会の「風土」をもし可視化したら -3

人の人間性におけるポテンシャルには個体差がある

人間の世界観の大きさにおいて個人差は少ないが、その技能や感受性の深さ(密度)に比例する現実実現力の大きさにはほとんど際限のない個体差があると僕は思う。
ベルク氏が風土学を「至高な次元にある客観的な現実」(p.429)を現す視点として提唱するならば、この点は看過できないだろう。
認識する物をすべて「〇〇として」価値づけてとらえる人間はみな事実上、自分の体より大きな体を持ちまるで巨人も同然の感覚を備えている。
その「として」のとらえ方は人それぞれ異なり、とらえる対象が広くそのとらえ方が深い人ほど大きく強い人間となる、つまり優れた人間性により現実世界に行使しうるポテンシャルを強めている。
たとえば科学的な知識をもつ人は人間に知覚しがたい物の土性を把握して、言葉を替えればその知識で自身の感受性を補強して、より大きな現実実現力を手にしている。
また科学が人間の認識能力に追いついていない分野も多数存在し、それらの分野で比較的鋭い感受性を示す人にもその分その他の人より大きな現実実現力が備わっている。

一方、現状の世界で主に実行力をもつのは権力、貨幣価値、武力などなので、上で述べた人間の力はそのような力に変換されるまではあくまでもポテンシャル(潜在力)に留まる。
つまり、人間が生まれ持った力の価値と、現行の近代思想に基づいた世界の価値観は一致していない。

目に映らない身体・思考能力の知覚

蛇足になるかもしれないが、僕の個人的な意見を述べたい。
昨今インターネットの上で、他人をほめる言葉として「強い」という語が用いられているのを目にする機会が増えた。
たとえば日本語で常用されてきた「気が強い」ではない意味合いの「ハートが強い」、「強いオタク」など。
もしかするとインターネット上というよりも若者の間で使われることが増えたのかもしれないけど、僕は若者と直接話をする機会が少ないのでわからない。
「強い」とは通常は力を形容する言葉なので、漠然と人に対して使われる時にはその人がもち発揮しうる力を指して使われていると考えられる。
そして、頭脳は優劣で評価される機会が多いのに対し、強さで評価されるものとは身体ではないだろうか。
この「強い」の多用はもしや前述の富士登山と同様の身体性獲得願望と、現実実現力として未発現の人間力=それを発する身体性を、他人から感じとり評価しようとする向きから発した現象ではないだろうか。

p335 問題なのは、思考の性格そのものであり、そのすべての様態である。だから風土性の視点からは、動物身体と風物身体の接合の構造契機が問題となる。要するに、思考は身体性をあらわにするということだ。

中でも「メンタルが強い」という言葉は「神経が太い」に通じ、人が物事へ無頓着な様を指して褒めと蔑み両面の意味をもつ。
その神経の太さは無神経に寄った未発達故の鈍さか、細かいことに頓着できないほどに多岐に分かれている故か、そのどちらなのかで客観的な事情はまったく異なる。
ただその比喩において、細い神経は太い神経に比べると本人の認識を制限し、本人本来の主体性の発揮を抑えているということが言えると思う。
神経が太く人から打たれ強くまた(良くも悪くも、またその経緯には暗も明もあるが)人の心を打つような強さをもつ人間の方が、神経の細い人間よりも本人のポテンシャルにおいてその心身がより健全に保たれると思う(周囲から見た本人の評価に関わらず、あくまでも本人にとって)。

神的なものになろう(またはそういうものを作ろう)とする人は何を目指しているのか

その一方でネット上にはまた、優れた人間性の現れた行動を「神対応」と評して他人を神格化しようとする言動も見られる。
こちらは、宗教の信仰において偶像を崇拝対象と同一視するのと同じ心性が招く誤った現実表現である。
宗教の始祖がみな神的存在自体でなく預言者であるように、他力で生まれた人間は大人物にはなれども神にはなりようがない。

また科学者と彼らに命運を託そうと彼らを支持する人々も、技術の分野において人智を超えた領域に達すべく挑戦を繰り返している。
正確な計算にもとづいた絶大な権力や経済力において、まるで他の人間や事物の配置を司る神であるかのように彼ら・それらを制御下におこうと企図する人もいる。
現在、前近代の王のような身分についていた人々とは異なり、人智の限界を求めるだけでなくそれを本気で超えようとしている人がいやしないか。

p.420 風土エクメーネはパラデイグマ(手本、模型)の天上界のようなものではない。風土エクメーネから考えるということは、機械仕掛けの神のように行動することを根本から否定することだ。わたしたちは神々ではないのだから。わたしたちは人間として、歴史と地理の偶発性のもとで、物と人の実存に依拠しなければならない。それがわたしたちに固有の実存に風土ミリューの現実そのものなのだ。そのためには、風土性を尊重することだ。わたしたちやわたしたちと同類の人々の一部が、物のうちに含まれていることを再認識することだ。

僕は人工知能の門外漢だが、昨今の日本の経済・技術界を見て人工知能がいつか「機械仕掛けの神」になるような、そうすることを目指している人がいるような不安感を覚えている。
たとえ力ずくで人間を超えた者になったとして、彼らには自分のように他力で生まれた人々の成す現行の世界以上に良い世界を作り上げる目算があるのだろうか?
それとも彼らは先祖・子孫を含め他人には興味がなく、自身が人間の定義を乗り越えその生来の感覚を捨ててでも人間に認識できなかったものを認識したいとでも欲しているのだろうか?
そもそも彼らは、人間や神の本質の理解をふまえて行動しているのだろうか?
興味があるので、答えをお持ちの方は教えてほしい。