地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 「風土」はミリューからエクメーネへ -1

ある地域性はある人の主体性が及ぶところまで広がる

近代化以前、世界中に存在した共同体では、人間一人ひとりの風物身体は本人が属する地域共同体とほぼ一体であった。
その共同体の一員「として」どうふるまうべきか。
たとえば〇〇をどのように扱うべきか(△△として扱うべきだ)。
そのような意味=おもむきを共有する人間集団とその「風土」が、『風土学序説』でいうところの風土ミリューである。
風土ミリューは地理学でいうところの地域性または地域共同体であり、特にその核心を表す概念であるといえる。
それは人の主体性から広がる関係性だが、無限に広がるわけではなく各人に感知でき仲間と共有できるところまでしか広がらない。

f:id:appalaried:20180408161227j:plain
文化圏の位置(テキトー)と地球の絵は一致してません。

風土ミリューが意味するものは近代以前から今現在も、様々な形をとって(たとえば空手道の〇〇流といったコミュニティーとして)世界に実在している。
異なる風土ミリュー同士はそのおもむきを異にし、時に争い、時に他の風土ミリューを飲み込んだりしながら栄衰している。
かつて風土ミリューごとに異なるおもむきが共同体同士の争いの引き金となった主な要因は、科学を知らなかった人類が「風土」の土性を知らず、その多様な風性に認識を奪われていたことにある。

f:id:appalaried:20180408161224j:plain
具体的に知らないことには実際より良い/悪いイメージが浮かびますよね

一方今日の、つまり近代思想を理解した人々の運営する風土ミリューは、その近代的知識にも助けられながら(もちろんそれ以外の認識にも依りながら)自分たちと他の風土ミリューの共通点と違いを理解し、共存を測ろうとしているはずである。

今日の人間の感知すべき地域性

今生きている僕たちは、動物身体の血統の上でも、様々な風物身体の上でも、その時に住んでいる直下の地域と確固とした結びつきをもっているわけではない。
そして僕たちは前近代よりもおそらく数の上で多くの共同体に、少しずつ属しながら暮らしている。
たとえば職場の一員として働き、職場以外でも様々な価値を共有する共同体、たとえば日本人でありながら外来文化に親しむなどして暮らしている。
それは様々な「として」において暮らすということだ。
たとえば電気技師として、○○社■■部■■課の課長代理として、自家用車のドライバーとして、柔道のプレイヤーとして、音楽家Adeleのファンとして、某の夫として、○○町民として、▽▽県民として、日本人として、東アジア文化圏の一員として…

また、近代が発明した主客を分離する視点が、たんなる物(土性)を覆っていた多様な文明(風性)が人間の主観の産物だったことを明らかにして、風土ミリュー間を隔てていたそれをかなり、、、無効化した。
(たとえば日本人はいまだに他人事についてだけは、忖度や品格といった前近代的な価値観を重んじる傾向にあって古来の風性を強くひきずっている)
もちろん僕らは決して自分の主観から逃れられない身であり、たとえば限られた母語を使って自分の思考を組み立てるためにやはり特定の地域性の支配下にいるのだが、以前には得ようがなかった科学的知識においてそれをかこむ壁を認知し乗り越えることもできるようにはなった。
「風土」が発生する現場はあい変わらずこの動物身体と足下に連なる大地であるが、近代化を経て普遍性を獲得した諸学問という共通言語と、その基盤のもとで強化された技術と象徴の装置により人それぞれが感知する意味=おもむきは地球上の全方位に向けて展開しうる状況にある。
科学の発達により「風土」の風性と土性の区別がつくようになったこと、文化的にも異文化間の壁を乗り越える手立てが発達したことなどにより、僕たちは異なる「として」を異なる「風土」として総体的・現実的に理解し受け容れることができるようになった。
つまり学問や交易の発達に助けられて、たとえば遠い異国の文化を愛することも、生まれた民族と別の民族と共に生きることも、まったく日常的に起こり得る世の中になったのだ。

f:id:appalaried:20180408161221j:plain
手でカレーを食べると確かにおいしいそうです portal.nifty.com

人類は自力で、旧約聖書バベルの塔を建てようとして団結していた(共通の言語を話していた)頃に戻ろうとしているともいえる。
ただし風土学によると、そのような人間の塔はかつて神を恐れさせたバベルの塔とは異なり決して天に届くわけではなく、どこまでも人間が天を目指す意志を示すだけだ。
風土学は、科学はそのような塔を建てる技術だけではなく、人間自身の限界に関する理解をも人間に与えるほどに成熟したと主張する。
その主張は決して人類全員から賛同を得たわけではなく、そもそもまだほとんど普及していないのだが。

風土学の理屈の上では、そして現状においても既に、「として」を共有できる仲間の範囲はかつて地域性を隔てていた壁から解放され、器質を共にする人類全員にまで最大化している
入れ子状に重なった風土ミリューの最後の受け皿、その最大公約数たる「人間らしさ」の実現する場が風土エクメーネだ。
風土エクメーネという概念の実態は、人間が住み得る場=地球(地下から上空まで人間の営みに関わるもの全て)と人類(過去と将来を含めヒト科の親から生まれる人全員)である。

p.22 風土エクメーネとは、人間の風土ミリューの条件の全体性である。人間の人間らしさはここにある。