地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 「風土」はミリューからエクメーネへ -2

風土エクメーネは人類固有の普遍的な地域性とでもいうような概念である

多様な生き方をするように生まれついた僕らは、自分と異なる文明や価値観に沿って生きる人間を敵だとみなし排除したくなることが多々ある。
僕らは自分と異なる物を異邦人だとみなしがちだが、実は真の異邦人とは文明を放棄した者だけに限られ、人がその他の人々を異邦人だとみなすことは客観的に見て誤りである。
風土学によると僕らは器質的に、風物身体を共にする人間と共に生きようとする生き物だ。
その風物身体の風性は述語論理に基づいて入れ子状になっており、たとえ経済や宗教等の価値観において異なり対立したとしても、自然科学と社会科学の理論に基づいて最終的には文明という半身を共有する「人類」という枠組みに至るまでには必ず同一化する。
地域性の本質にある意味=おもむきがその発現過程の解明により見える化された場合、たとえある複数の意味=おもむきが表面的には科学反応や文明上の差異により違和を示していたとしても、それぞれを地理学の視点から各尺度に分けて論理的に示せば、真に妥当な妥協点も探れるようになるはずである。 今日、科学の原則から文化事象のあり様までひととおり理解していれば、つまり義務教育の内容をひととおり理解できていれば誰でも、世界中いかなる場所で行われている人間活動でも理性的にその意味を理解できる。
また、もともと僕らはそのような理解の有無にかかわらず、世界中どんなものに対しても自分の本性に通じるものを感知し得る、つまり親しみ夢中にもなり得る。
だから僕たちは今日、自分が地球上どの風土ミリューにおいて自分らしく暮らすべきなのか考え、選ぶことができる。
生まれた場所でも、そこから遠く離れた場所でも、僕たちはその地に足をつけて(その地の地理と歴史を理解し)実存して(それに連なる新たな「風土」を展開して)まわりの他者と感覚を共振させ理解しあうことさえできれば、つまりもし誰とでも共同体を作れたなら無敵になることができるはずだ。

人間は生物でもあるから、場所の生態学的なキャパシティの問題により、人間は自分のいたい場所にいられないこともあるだろうという意見もあるかもしれない。
しかし、人間がある場から追い出される理由が真に物理的かつ生態学的な原因による場合は少なく、それよりも文明以上の尺度に属する理由によることの方が圧倒的に多いのではないだろうか。
地球の可住地の状態と現在の人口を客観的に見れば、そこにひっ迫した問題はない。
そして人間一人のもてる風物身体の大きさには限度はない
人間が自分の外なる半身を感受しそれを主体的に方向付けようとした場合、世界のあり様は今とは変わるかもしれないが、それが現行よりも悪くなる理由は僕には思いつけない。
たとえば人が物に抱く好意も嫌悪も、価値も非価値も、関係者の身体性に発する客観的かつ主観的(すなわち通態的)な問題であり、関係者はみな半身を共有している共同体だととらえれば、きっと解決の糸口はつかめる。

人間は古代から、自分と性向の異なる人や自分たちと異なる民族(つまり自分のおもむきと異なるおもむき)を蔑み攻撃し制圧し、自分の価値観において価値的なものをそこから奪おうとして争いごとをくり返している。
近代文明が実現させた経済制度や中央集権制などは、それを発生させた地域自身のものを含め地域性のおもむき自体を亡きものにして人間が本来知らなかったような規律において世界に人間性とは別種の秩序をもたらして、人間の暴力的な活動を抑え込もうとしている。
しかし風土学によると、古今東西人類が一人ひとりにおいて立ち向かっているものは、実際のところは人間の認識できる世界の中にはない。
他の生物よりもずば抜けて幅広い認識能力をもつ人間にとって最後まで認識できないものこそが、人間が人間性において立ち向かうように運命から仕組まれた対象物、運命そのものである。
他人でも人間以外の生物でも無生物でも人間が部分的に同一化可能なものはみな、実存の構造に沿って突き詰めれば人間にとって文明を用いて己の味方または共存を阻害し合わない関係におくべきものである。
人間同士は無論、人間を含む生物と人間とは、文明やそれより下位の尺度(物理学、生態学)で(たとえば人間が科学を用いて対象を理解することで、またスキンシップのような文明より原初的な交流を通じて)互いの感覚を共鳴させることができれば味方同士になれる。
世界の上記以外の部分が、真に人間を脅かす、味方になれる可能性のない敵である。
科学と史実に立脚した風土学の視点からみると、人間が自分と部分的に同一化できるものを敵とみなす行為はすべて、本人と本人の風物身体に連なる人々の認識上の問題に起因する。
ただ実際のところはその構造、人間性の構造を解明した学問がいまだかつて存在しなかったため、それを理解できる人は信仰心の厚い人や偶然実存をかなえた人などごく一部に限られ、その他の人々はそのようなことをかなえるのは純粋な理想論だと受け取りがちだった。
科学を理解する人は、科学が明らかにした人類の平等さとそれを体現した基本的人権と共に、可能主義地理学と現象学その他自然科学・社会科学に由来する風土学も理解し受け入れるべきである。
科学者による技術発展と資本主義経済に甘んじて引きずられるような現実認識の狭さと浅さに起因する誤った行動規範は、僕らが風土学に沿って自己認識を改めれば正すことができる。
そして、日本人の身体感覚喪失感と同様にそれは自己と現実の認識を改めなければ正すことはできない。

上で述べたことはあくまでも理屈上の仮定にすぎないが、検証する値のある仮説ではあると思う。 たとえば近代思想を共有する人々はいまだに戦争の是非について意思を共有していないと思うのだが、ベルク氏の仮説はその是非を問うために役立つ。
戦争は人間性から導かれる必要悪であると考える態度と、戦争は人間本来の人間性が認識上の圧力から歪むことで引き起こされている(不必要な営みである)と考える態度は、客観的にみてどちらが正しいのか。
もしも後者に正当性があると証明できたならば、戦争行為を行ったり助けたりする人の行動規範は大きく変わると思う。
これまではその結果しか見えていないかった行為についてその発生原理が理解できたなら、行為者がそれを起こすか否かは必然性の有無に帰せられなくなる。
行為主体のその原理に沿った判断がその行為の選択に直結していることを、行為者初め関係者全員は認める必要に迫られる。