地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 近代西洋の論理 vs 風土学の論理 -1

対立しあう論理を同時に支持することはできない

自分の力を、自分のおもむき(自分らしさ)と一致する場(仲間)を探し、選び、自分のおもむきをその場のおもむきと共に深めていくことにつぎ込むか。
それとも自分の力を、自分と自分が仲間と認めた者をいま豊かにすることにつぎ込むか。
僕たちは、生きている間に何のためにこの手足をそして言葉を使うか、選ぶことができる。
いや、人間として生きるという行為ではそういった判断を続けざるを得ない

現行の近代的な論理の要である個人主義と合理主義を西洋人が人間の器質をおよそ半分しか理解しないままに定めた誤った思想だと批判する風土学を支持する場合、もはや日本のような近代社会で公に通用している論理・思想を支持しまたそれに従うことはできない。
逆も然りである。
ある事物をそれが関わる利害関係に連なる人々すべての身体(たとえば心臓のようなものにあたるか爪の先のようなものにあたるか等はそれぞれ異なるが)と等価の存在だなどとみなし扱うことを、日本で通用している法制度も常識も受け入れられないだろう。
2つの論理(思想)は対立する。

認識の一部を「省略しようとすること」は必ず人間性を損なう

2つの思想は、世界とは何か、事物とは何か、人間とはどういう生き物かなど、人間のもつ世界観と価値観の様々な面において考えを異にする。
その違いの根本はどこにあるか。

風土学の思想の特徴は、僕たちが経験している現実を風性と土性という区分けで区切ることで、現実世界を人間の(意識上/意識下の)主観を含めて構造化したことにある。
その最も顕著な特徴は、人間が自分本体から環境へ無意識に伸ばしている感受性とその様態に風性、コーラ、風物身体といった名をつけ、それが表す意味=おもむきを構造化し、それらを見える化した点である。
ベルク氏はその今日の常識ではまるで感知できない存在を証明するために、既存の人文地理学の学識に人間とその主体性に関する学識を加えた理屈でもって、そのままでは人間に認識しがたい古今東西の煩雑な事象の多様性を直視するための枠組み(トリセツ)をこしらえた。
そのようにして風土学が西洋近代思想に対して提起した批判の先は、後者が行った現実の抽象化に向かっている。
風土学は、西洋近代思想が現実の一部だけを自明視し、抽象化という名のもとにこの現実世界から(風土学が風物身体と呼ぶ)人間同士の絆を、過去から現在を経て将来へかけて自分の存在と他者の存在をつなごうとする配慮を、分断し消そうとした態度を最も決定的な過ちとして問題視している。

世界に存在する多様な地域性の研究を旨とする人文地理学の視点から生まれた風土学は、現実の土性と風性の組み合わせから必然的に生まれる多様性を重んじる。
物事の多様性を重んじるとは、(自分に、そして人間に)それを認識できる限り最大の範囲で具体的に扱う、可能な限り抽象化しないよう心がける態度である。
なぜなら、もし人間性の原点は風土性という構造をしているという風土学の仮説が正しければ、現実において人間に認識可能なことを省略(無視/忘却)することは、それに関わっている人々の存在(実際に生きているという事実、生き方、活動、思想 等)を否定することであり、すなわち彼らと自分との相互関与を否定し自他の人間性を否定することにつながるからだ。
簡単にいうと風土学は、学識的な見地から何か現実的に認識できる物事の一部を無視したり自明視することは人間として不健全な行為だ、そうしようとするのは自分にとっても他の関係者にとっても本来的な生き方を阻害する態度(生き方)だ、と訴えているのである。

人間は人間である以前に生物でもあるので、人間としてと生物として、両方の態度において生きている。
だから時には自分の人間性を否定してでも生物として、個体や種としての命の保持を優先させようとする機会ももつ。
しかし人はまた、その風土性がもたらす自分の死と生両方への不安を、死ぬまで絶えず感じ続ける
その人間ならではの不安を満たそうとする衝動が本人に他の生物には真似できないような能力(通態)とその産物たる文明をもたらしている以上、人間はたんなる生物として生きるよりもできるだけ(主体的に自分と環境を倫理づける「として」を念頭におくことのできる状況においては)人間固有の論理を重んじるふるまいを選ぶべきであると風土学は主張する。
その論理とは、「風土」すなわち主語論理と述語論理の区別をつけ、両者の複合を旨とする論理である。

本書が提示した実存は、人間の性向の発揮のしかたの、その身体性に照らした理想型にあたると僕は思う。
人間性においては、人が自分に知覚し得ないものを認知するという事実や、その神秘性の存在が肝要なのではない。
実存には本質といえるものがあるが、物事において現実的に意味を成すのはその本質ではなく、本質をふまえた性質の方である。
人にとって肝要なことは、自身の世界観の宇宙化の結果として自分の認識に取りこぼしがあったことに気づき、認識をとりこぼさないように努めようとする態度(多様性を受け入れる性質)を獲得することの方である。
認識する手段は、自身の五感を通じても、学問や先人の知恵の助けを借りても、公私にわたる他者の見識を借りても何でもかまわないが、とにかく可能な限りすべて認識しようとする態度をもつことに人が人間として健やかに過ごし成長する鍵がある。
ある人の人間性とは、上のような理想の方へ向かっていないと、つまり実際は認識している(認識できていないことに気づいているといったことも含む)ことについてその一部を否定していると、生来の不安衝動が認識を認めた部分ばかりに余計にかかり、必ず本人の身体性に照らして歪んだ形をとって現れると思う。
人間のなす行為のうち、風土性にもとづいた人間性の健全な発揮からはずれた行為はすべて、風土学の観点から批判を容れる余地がある。

人間の生き方の根本には風土性があるため、人間はみな自分の生きる意味を求めながら自分の世界観をもっている。
自分が生きる意味、すなわち意味=おもむきは、自分の生のおもむきに支えられている。

p.367 生のおもむきとは、偶然的な破壊を除くと、多様性に向かうものだ

ある人にとって、人間性の全容の理解に則って人間を含む現実の事物すべての多様性を認めることは、(古今東西の誰とも異なる)自分が(その独自かつ人類に共通の)世界を生きる意味を理解することを助ける。