地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 風土学の画期的な点

風土学は人間性とその本来的な実現過程の理論を、その実践から切り離して求めた

現実に起こる現象のそして存在する事物や人の多様性を認めよ、つまり実存せよ、とは古来仏教等の様々な宗教的・哲学的な教義の説いてきたところである。
そういった教えはみな実践ありきであり、理解と実践を表裏一体のこととして扱っていると思う。

本書に著された風土学の画期的な点は、人間性の(完全)実現つまり実存を必ずしも実践せずとも理解できるように客観的な人間性の構造から具体的に明かそうとした点にあると思う。
僕は拙ブログの最初の方で、ベルク氏はそれまでに誰も考えられなかったようなことを考えたと述べたが、実は本書の学説のようなことは多くの宗教家に考えられてきたところではないかと思う。
ただしそれは常に己が実践し実際に達成することを求める姿勢・説く人の価値観と共に考えられており、ただ理論として客観的な観点から考察したのはベルク氏が初めてだった、と僕は言いたい。
無論、西洋哲学の研究者もみなそれに関する試みを続けてきたが、ベルク氏のように多様性を全面的に肯定し(いかなる抽象化も否定し)ながらそれを理論化できた者は、いなかった。
彼らは、世界の成り立ちを理解するためには地理学のようにそれを尺度ごとに分ける視点が有効である、という認識が不十分だった。
そして多様性を支える背景の理解に造詣の深い東洋の思想家たちには、人間が真実から離れずに現実を認識するために有効な科学の素養と、それに適用される主語論理の認識が足りなかった。

p.17 わたしたちが認識すべき現実とは、まず人間が地理的な存在であるという事実に直接に影響される

これまで述べてきたように、僕たちの目前の現実は後先(そこの歴史)とまわり(そこの環境)との兼ね合いで成立している。
後先のこともまわりのことも目前の事物もみな、そのままでは人間にとらえ難い有象無象である。 ただし、それらは現在ある地理学の知識でもって歴史的に構造化すれば、互いの関連性にもとづいてそれが何「として」存在するのかを理解できる。
人間は他人と共に後先のことを気遣い合いながら、客観的かつ無意味な環境をベースとしてあらゆる事物に意味を感じ取る、その総体に調和する形において自分自身の存在意義を認める。
あらゆる存在者が存在する意義とはどう決まるのか…本書は地理学の視点と知識を用いて、この存在論と呼ばれる思索の目指してきた主題を史上誰よりも正確に明かしたと思う。

p.19 存在に地理性があるということは、地理学者が存在に自分の地盤を確保するほんらいの権利があるということではない。また哲学者が同時に地理学をすることで―たしかに有名な実例はいくつかある―、存在の地理性の次元を自分のものとして僭称する権利があるということでもない。ここで問題になっているのは、地理学者が専門家としてなにをするかではないし、哲学者が地理学者をまねて、学問として地理学を営むかどうかでもない。重要なのは、人間という存在が大地にみずからの存在を刻み込んでいるという事実であり、逆にある意味では大地によって刻み込まれているという事実である。地理はまさに、この〈意味〉を問うのである。

この関係は、わたしたちの人間性そのものの基礎であり、人間性の条件である。

ベルク氏は史上初めて地理学から存在論へと架橋して、この現実世界と人間性の関係に(誰しもが多少は感じていながら)誰も客観的な観点からは説明できなかった身体性を見える化しようとした
それは個人の感覚から発するゆえに様態の上では千差万別であるため、比較のような考察方法ではその構造を見える化できなかったのである。
人間という生き物は、(たとえそれがただ多様だという理由だけでも)自分たちに認識できないもの、下の引用で「深淵」と表現されるようなものにめっぽう弱い。

p.19 存在の問題は哲学の問いであり、場所の問題は地理学の問いであると言い切ってしまうと、現実をひとつの深淵で引き裂くことになる。そしてこの深淵のために、わたしたちは現実を捉えることができなくなるのである。それは〈そこにある〉の明証性を愚弄することだ。そして同時にわたしたちの実存の本質を分裂させる。わたしたちの実存の本質は、この〈そこにある〉の外では、もはやなにものでもない。哲学者は、絶対者のうちに存在を思い描くかもしれない。地理学者は、自分の調べている事柄には、存在など関係がないと思い込むかもしれない。どちらにしても、そこに深淵が口を開く。そしてどちらも、わたしたちの実存に生気を与えるもの、つまり存在から目を背けてしまう。存在はまず「田に烏がいる」風景、または他のどのような風景にもあるものであり、他のどこかの場所ではなく、いつも〈そこ〉にあるのである。

しかし人間はひとたび集団で対象を認識すれば、それを自我と世代を超える身体すなわち文明として、時にとんでもない速さと規模で展開する能力を有しているとは思わないか。
それこそ神でも本気で恐れるような塔を建てるほどの、潜在能力をもつと。

実存の実践はともかく達成は、現実的に難しい(個人にとってそれをめざすような行動規範は、そうでない行動規範よりも手続き上面倒くさいし蓄財は阻害するし他者からの干渉も受けやすい)。
本書の第八章他のいかにも敵を作りそうな主張を読む限り、著者自身すらその達成にはまだ遠い境地にあるように思える。
もちろん僕も、自分のことを(まわりと自分自身を含むその)多様性を受け入れる器にたとえるならば、その小ささのために後悔と反省ばかりくりかえしている身である。
いや。
以前に「風土」は現実のトリセツまたは現実のありか、現実の器だと述べた。
僕の受けとめるべき現実の総体、つまり僕の器全体は、そのように「風土」として僕の物と人(僕自身を含む)すべてとの出会いに出現している。
僕の器とはすなわち僕の実際の身の丈であり、その大きさを決めるのは僕独りの意思ではなく、僕の意思その他の要因により僕に訪れる一生の出会いすべて、とどのつまりは運命なのだ。
人はこじんまりと生きようとすればこじんまりと、広いところで活躍しようとすればそのように生きられるものではない。
都会に住めば日々無数の他人がまわりで事を起こし、田舎に住めばダムや原発のような都会には置けないものが押しつけられで自分が何もせずとも自分の身の丈は広がるし、逆に自分の活動量に比して周囲との関係が深まらない場合もあり得る。
僕の本書の理解によると、僕のもつべき器または僕が無意識に自分で感受すべきだと感じているもの(「風土」)全体はそのように僕が感じ受けとめられているよりも大きいが、しかし僕の感覚がそれを取りこぼし受けとめきれておらずまたそれを自覚しているために、まるで「自分の(現存の)器が(世界に対して)足りていない」ように感じられるのである。
僕はその天から与えられる器をに日々神経を巡らせようとしている、つまり自分のすべての出会いを自分にとって有意義にしようとしているが、それがかなわずに出会った他人や物を嫌ったり他人に嫌われたり敵対関係を築いたり、そうなることを避けようとして現実の一部を無視したりもしている。

そのように、宗教の教義とは異なり、たとえ主張している本人に実践できていなくても、本書の説く実存にはなお説得力がある。
なぜなら学術的研究の実績という、他人の手による、また歴史的にある程度正当性の認められた根拠に立脚しているから。
かつて科学に通じる視点において、人間とその現実感をつなぐ身体性にここまで肉薄できた学問はなかったのではないか。
もちろんその主張はまだまだ批判され修正され洗練される余地をもつのだが、それが可能であるのも本書が学問の手続きを踏んで述べられていることによる。
個人の経験に立脚した主張は、その根拠を再現できる不可能性のゆえに、客観的な検証を受け入れられない。

人間にとってその実存を達し、自身を含むあらゆることに意義を感じる姿勢を保持することは、その器質に沿って本来的なことである。
が、しかし本当に難しい。
しかし、その構造と具体的な手順を理解しているのとしていないのでは、その達成可能性に雲泥の差が出ると思う。
やはり実現することの難しい美味しい料理にたとえれば、それを再現できる可能性はそのレシピ(その構造と具体的な手順)の認知有無に大きく左右される。
人間一人ひとりの身体(本書のいうところの動物身体でも、もしくは風物身体でも)の成り立ちを理解し健やかに保つことも、それと同様だ。
それは(たとえ内因を整えて保つことができても常に外因で損なわれる可能性にさらされている故)本当に難しく、しかし構造と具体的な手順を理解できれば、経験上決して人間に実現不能な夢物語などではない
ある人がしようと欲すること、そして人にそれを実現する可能性があることは、ただ生のおもむきに逆らっていないことだけを確認できれば、それがたとえどんなことでであれ、危険思想や夢物語と断じて棄却してはならない。
人は認識できるものすべてを動員してそれまでできなかったことを実現することでみな人間になってきたのだから。

以上は、拙ブログの題名の所以でもある。
風土学は、万人が実存の成否にも価値観の相違にもとらわれず、中学校の地理程度の知識さえあれば問うことのできる実存哲学である。
すなわち義務教育程度の素養をもって主語と述語を区別し、両者を「として」でつなぐことができさえすれば誰でも、万物についてその意味を問うことができる。
宗教家が教義に背く行為は本人の地位と共にその教義の正当性をも疑わせるが、医学を以て任務にあたる医者の自身の不養生は必ずしもその診療の信ぴょう性を揺るがせる根拠にならないと思う(判断は人それぞれ違うだろうけど、僕はそう思う)。
学識的な見地は、問題を解決(治療)できるかどうかは別として、是非の判断(診断)を下すために役立つ。
ベルク氏は人文地理学者というキャリアを経て、人間とその環境との関係における健全性を診るような学問を拓こうとしたのだと思う。