地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

5 近代西洋の論理 vs 風土学の論理 -2

現行の論理をとるか、風土学をとるか

風土学を支持する人は、自分と同類である(なんらかの文明において生きている)人間つまり人類(ただし文明を否定する人は除く)の中に敵は一人もいないということになる。
人類はみな、形は異なっても相互に通訳可能な文明において半身(風物身体)を共にする運命共同体だという論理を支持するからだ。
人間は言葉その他の象徴が共感を実現できる限り誰とでも行動を共にできるし、共にいる場では不仲になるよりはそうするよう努めるべきだということである。
しかし日本のような社会でそのようなことは、個人のもつ信念としてはともかく社会で共有されるべき論理としてはまったく通用しないだろう。

ベルク氏は、自説は現実のことを西洋近代思想よりも客観的に説明していると主張している。

p.429 これは至高な次元にある客観的な現実そのものなのだ。この理性はわたしたちを宇宙から抽象することなく、世界を脱人間化することがない。通態的理性はこの客観性を、近代の客観主義よりも高い位置におこうとする。

さて、あなたは現行の近代的な論理と風土学のどちらの方が自分にとって現実的だ、自分の現実に妥当する、と思うだろう? そして他人はともかく自分はどうするべきだと思うだろう?

僕は、西洋近代思想を積極的に支持する人も、戦争を必要悪だと主張する人も、両方、自分の世界の中に理解できない他者がいることを許せない、そんな自分を許したくてそうしているのだと思う。
要は、ベルク氏に比べれば彼らは自分に甘すぎる故に他人を蔑もうとする非現実主義者だ、と思っている。
あと、もし彼らが自分の仲間とだけなら十分に理解し合えていると考えているなら、客観的に見てもこの地理学者に比べて現実というものの認識が甘すぎると思う。
彼らは風土学を非現実的だ、机上の論理が世界の現状に対して異を唱えられるとは楽観的に過ぎると批判するだろう。
風土学の視点から見れば、彼らは視野が狭すぎて前後もまわりも自分のことも正面切って省みたことがなく、楽天的に過ぎる。
僕はたとえばもし、自分が震災に遭い同じ地域住民と共に壊滅的な被害を受けたら、そのことを知ったもっと遠くの人が(あくまでもできる範囲で)自分の日常を脇によけて助けに来られる(行ける)ような社会(慣習)の方が、見ても見ぬふりをして日常を続けようとする社会(慣習)より、精神衛生上良いと思う。
風土学を支持し神も仏も信じていない身からすると、「この世には人間個人の精神衛生よりも重要なことがある」と言う人はずいぶんストイックにみえる。
「みんながしているから僕もそのみんなの一人として〇〇」「あの人たちはみんな〇〇だ」という認識のまずい点がただ具体的でないこと一点であり、もしもその一人ひとりを具体的に識別して、その人が具体的な(必要に応じて科学を用いた)認識のもとに行動を選択をしたならば今起きている問題は(科学にも扱えない運命にもとづく類のもの以外は)はすべて解決できる可能性がある、というベルク氏の主張には一理あるかもしれないと思うし、期待している。

でも自分に「できる範囲」ってどこまで、何をすることだろう?
これは本書の提起した問題そのものである。
大事件から日常の買い物までいつも何事かが起こるたびに、つまり常に、僕は「自分は今どうするべきか」と自問し、まわりの人とも話したりして、いつも通りにするかそうしないかを決めるべきだと思う。
だってもし自分や身内があのような震災に見舞われたりして困っている時、まわりの人から見て見ぬふりをされたら、救いを求めたいし悲しい。

まあ、見て見ぬふりをされてもしかたないと考える人もいるだろう。
だからこれは結局のところ、本人の主体性と価値観の問題なのだ。
世間を省みるような、人間関係においてなんでも互いに気遣い気遣われてふるまうのはひどくわずらわしく物事を現行の都会のようには進歩させられない生き方だけれど、それは孤独死や貧困からは今の都会よりずっと遠ざかる生活であり、また将来にわたる生活コストを全体的には引き下げるリーズナブルな(穏当な)生き方でもあると僕は思うので、臆病者としてこちらを採りたい。
臆病ながら勇気をふるって現実を直視するならば、たとえばもし家に鍵をかけたとて有償で専門家に防犯を頼んだとて強盗に入られる時は入られるものであって、そのようにリスクというものはどれほど努力しても人間の意志や物財の力で100%食い止められるものではない。
ならば僕は、できるだけたくさんの人と日頃から世話を焼き合い、いつか突然降りかかるリスクを彼らと共に迎え撃つ備えに勤しみたいと思う。
情けは人のためならず。

戦争は人間にとってよけいな営みだったのではないか

歴史上、戦争は人類の進歩に大いに影響を与えた。
戦争なくして発明されなかっただろう技術寄り「風土」も象徴寄り「風土」も数多く存在する。
しかし、それはあくまでも現実の現象面における結果であって、その結果を見る視点からは戦争が人間にとって本当に必要な営みなのか否かは判別できないと思う。
歴史上のあらゆる事象はみなその通りなのだが、人間は戦争のような人によっては命を脅かす災厄以外の何物でもない事象を、それが起こる原理が解明された際にもまだ起こそうとし続けるのだろうか。

僕たちそれぞれが2つの感覚器を併せ持ち、その2つが拠り所にする至上の指針は「共に自由に生きること」だったという仮説は、科学を含む諸学問の学術的見地から厳格に検証されるべきである。
もし、『風土学序説』の正当性が世界的に認められた場合、その視点は世界平和を実現する根拠を成すだろう。
たとえ科学を嫌っていても現代において強い実行力を持つ人はきっと科学技術に頼っているはずで、つまりは科学を信じているはずだ。
そして科学を信じられない人たちは、きっと信仰においてすでに平和を願い続けている、と信じたい。
もし人類にこの思想が広まったとして、そのうえで世界平和の実現を脅かそうとする人災は、地球が人間の住み処たる唯一有限の地であること、または人類が地球上唯一の種であること、人間はみな人類であることのいずれかを疑い否定しようとする向きだけとなるはずである。

でも人間性そのものは多様で(たとえば戦争をするのも)まったく自由だ

人間はみな一人ひとり、真に人間らしく生きることも、別の生き方で(ごく部分的に人間らしく)生きることも、選ぶことができる。
人間本来の生き方の型は唯一だが、人は生涯一個の生物でもありながら人間でもあるという姿勢で生きるからだ。
たとえば一旦実存がかなった人でも、その感覚を忘れてまた人間性の原点からはずれた道を選んで生きることだってあり得る。
地理学者ラ・ブラーシュの唱えた環境可能論は、この文脈において正しかった。