地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

6 自由な行動の現実的な限界 -1

人間は(他の生物と同様に)己に可能な範囲内ではまったく自由にふるまうことができる

ラ・ブラーシュがその礎を築き今日の地理学を支えている環境可能論に、客観的な観点から異を唱える人はいないだろう。

人間は自分の環境で可能な限りあらゆることをし得る。
人間は自分の人間性の原点に立って生きることも可能だし、それとは別の行動をとることもまた可能である。
つまり人間には可能な範囲での自由があり、その性質たる人間性の幅は可能な限り広い。

人間性の原点に立ち自分のいる場で実存している人は、何事も「これはありがたい」ことだと感じ、その場のおもむきと自分の生きる意味を一致させるように生きる。
しかしそのようなせっかく実存の達成がかなった人も、ひとたび日常が当たり前の(別にありがたくもない)産物にみえてきたら元の木阿弥にもどる。
何事でも「これが当たり前」と感じられた時、何事もが人間の人生に与えていた意味は失われる。

風土学の視点によれば、人間が人間として歴史を通して世界へ向けて成長できるのは、意味=おもむきの生成を保持する態度の前者のみである。
まわりの人や物とのつながりを省みずに自由な選択をくりかえす姿勢は人間を、つまりその本人と本人と半身を共にする仲間も、両方滅ぼす。
人間一人ひとりはごく弱い体躯をもつばかりの生き物だから、個体ごとに分断されれば必ず本人が人間として発揮できたであろう力を失ってしまうからだ。

人間の使う技術的・象徴的な力は本来どれも、地理的・歴史的な事物がその背景によって共同体の元に束ねられることで生じる力であるため、人が「風土」に支えられた自分の力をその背景と切り離して(たとえば金銭として)静的に掌握できると考えることは、単なる勘違いである。
以前にも述べたが、現実の一部から目を背けて自己満足に陥ることは人を他者から隔て、本人本来の内外の心身どこかを不健全にさせて損なう。

おもむきの維持を旨とする制度と活動

近代思想は、人間活動をいかに行うかを主体の理性による判断にゆだねるべきだという合理主義的姿勢を生んだ。
目標に対して最少のコストで最大の結果を追求するような判断の積み重ねにより、合理主義は世界の客観的な側面を改変することについて絶大な効力を示した。
同時に、様々なリスクの顕現により、現実においてどんなに人の理性を洗練し合理化を進めようと、その反対の不合理を消すことは不可能だという見方が経験知として世に広まった
合理主義は人々の生活の隅々にまで沁みわたっているが、それに反する不合理の自覚は特に公的な場においては制度化され目に見える形をとるようになった
現在、人間活動の運営においてその活動の結果には直接現れづらいリスクを明確な手順において管理することを目指し、様々な制度が導入され、公的取引において利用されている。
たとえば産業全般の製品、サービスの供される工程に対して国際標準化機構が定めた管理基準を適用するISO規格、その特に組織の活動そのものに適用されるマネジメントシステム規格、食品製造におけるHACCP(食品事業者による衛生リスクの管理手法) などがそれにあたる。
『風土学序説』も、存在意義は異なるが、それら諸制度と、現実をその合理的側面と不合理な側面の複合物としてまるごと直視しようという姿勢を同じくし、その姿勢において同じ意見を示す。

  • 人間活動は、ただ運営主体の目的を達成するためだけに営まれてはならない
  • 人間活動は、その目的達成と同時に、活動が営まれる場(環境全体と共同体すなわち利害関係者全員)を維持・発展させるように営まれるべきである
  • 人間は発生し得るリスクを予測して防止対策をとるべきだが、人間にとってどうしても防止または予測できないリスクも存在する
  • 人間活動に必然的に降りかかる諸リスクを、人間にできる限り効果的な形で迎え撃つために、活動の運営主体は自分たちの活動内外の事実を可能な限り広く正確に認識しておくべきだ

このような解釈は、諸工程管理制度が発展してきた歴史的経緯からはかけ離れていると思う。
それでも僕は日本でその運用に関わった経験から、近代的な企業活動に対して現在それら制度が規制を課し実現しようとしている思想はこのようなものだと考えている。

本書の主張するところがそれら諸制度と異なる点は、上記の「活動が営まれる場」に既存の(場に物理的に残っている、また場にいる人全員が背景に負っている)文化や歴史の側面を加え、当該活動が方向性として採り得る選択の範囲をさらに狭めようとすることである。
人が継承する文化や歴史を重視すると共に、もちろんそれらを引き継ぐ人一人ひとりの立場を科学的視点及び基本的人権に照らして厳格に公平に扱うべきだ、生物学的にとらえられる人及び物とそれらの文化的・歴史的つまり思想的な背景は区別してとらえるべきだと主張しながら。
なぜかというと、対象とする活動の内容に対して、諸工程管理制度は対象とする活動の独自の主旨における継続と向上を目指すのに対し、風土学は同様のことに加えてその活動の人間性までを問題にしているためである。
なぜならば、人間性を欠いた活動からは、たとえそれを営む主体が人間であろうと、決して人間活動として本来もつべき意味、すなわち営む人を含むその活動の関係者全員一人ひとりにとっての活動の存在意義が生まれないからだ。
風土学の視点は、その活動から間接的に影響を受ける人たち全員にとっても、その活動がその人らしく生きるために役立つか、その活動がその人らしく生きることを妨げないかを問題にする。
人間の行うあらゆる活動には、人間の無意識下にそういった事案が必ず含まれており、活動の主体はそれを意識的に問うて問題が発生することを防ぐ/発生してしまった問題を解決するべきだ、と風土学は主張する。
なぜならば人間性の原点は風土性だから、行動主体もその主体に関係する他者も本人の体一つにおさまらない生き方をしていて実際に互いの人間性を支え合っているからだ。