地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

8 自由な行動の現実的な限界 -3

場における役割において(責任を感じて)行動する⇒結果的に本人にとっても関係者全員にとっても意味のある行動になる

人間を他の生物から分けた人間性の本来の由来は、仲間と共に生きてさらなる自由を求めることだった。
言葉も道具も本来、その文脈で「自分と仲間で共有する体」の一部として発明されてきた。
その過程で紡ぎだした世界の諸相を、その本来の希求から離れて用い発展させる欲求と能力もまた人間に固有である。
しかし、原点をすっかり忘れてしまった人間の、主にその脳に帰する能力は自分自身の力だけに頼って何事かを成そうとし、近代思想の力が自分たちの住まいをこれほどに荒らしてしまったように人類に牙をむいている。
近代思想が助長したリスクの無視と自由にまかせた行動は、人間をその原点からはずれさせ、無責任にさせ、生きる意味の理解からはほど遠い場所へはこぼうとする。
僕たちは自然環境から必然として迫られる以前に、主体的にこれを方向付け、やっぱりみんなで共に生きていこうとすべきだ、つまり共同体への責任感において生きるべきだとベルク氏は主張する。

ベルク氏は本書を日本で出版する5年前に『地球と存在の哲学―環境倫理を超えて』(ちくま新書、1996)という新書を上梓している。
ベルク氏は複数の著作にわたり、地理学は人間の生というか暮らし/営み/本書でいう人間存在を抜きにしては語れないこと、現代に生きる近代国家の人々はそのあり方に外から別のものさしをもち込み、地理学が対象としてきた古今の「自分たちの世界」を崩し亡くそうとしていると主張してきた。
すなわち近代の主客二元論や合理主義が、人間性の原点から乖離した営みにより地理学の対象とする地域性とそれを裏で紡ぐ人間性全体をまとめて殲滅しようとしていると。
『地球と存在の哲学』にはまだ風物身体その他の語が登場せず、「風土」の概念とそれが現す論理は構築の途上にあるようである。
拙ブログでは本論の説明を「風土」の概念から始めたが、ベルク氏の風土学研究においてそれが確立されたのは後半にあたるのだ。
その一方で、ベルク氏はこの本では意味おもむきsenseという語を用いており、この時すでに現実における意味とはおもむき(〇〇の〇〇らしさ)のことであると確信している。
人間性の原点が風土性medianceという構造をしているゆえに現実は「風土」という構造をもち(=人間と物は通態し)、人間の住まう地ecoumeneに手を加える際にはその構造(主語論理と述語論理で成立する通態)と人々と物がその構造において紡いできた方向性を具体的に認め保つ必要があるとベルク氏は主張する。
この地理学者は『風土学序説』でこの風土性と「風土」という枠組みを用いて現実に立脚した人間行動の倫理を問い、その正否は現実的な意味の成否にかかっていることを証明しようと、既存の地理学の範囲を超えて文献にあたり独自の研究を重ねてきたのである。

p.203 意味=おもむきがなければ、どのような規模の人間の営みも、決して実現されることはないだろう。そこでわたしたちも、この意味=おもむきそのものを考察する必要があるだろう。
人間は自分(たち)にとって意味のある行為ばかりとろうとする、人間にとって意味を持つことはすべて倫理的なことである、その意味と倫理はどのような構造をもって成立しているのか。
ベルク氏は現実的であるとは、理にかなうとはどういうことであるかを、西洋近代思想が可能にした客観的視点から問い直し、西洋近代思想が元から持っていた価値観を抜きにして構築しなおした。