地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

9 近代を終える時

近代思想がやっと非近代的な活動を支えている思想に追いついた

拙ブログを執筆していた2017年暮れから翌年の正月にかけて、僕はつけっぱなしのテレビを横目に本書の要旨を考察するにつけ「風土学ってまるで大河ドラマのタネ明かしみたいだな」と思っていた。
前近代の共同体における価値を近代的視点から見直し、改めて僕らの近代的な価値を省みるといったことについて、大河ドラマはその相違を様相において示しているのに対し、本書はその相違の理屈を明かしてしまっているからだ。

人間活動には、生命やその意味という問題を創作という手段を用いて模索し表現する向きもある。
そのような活動に勤しむ人々にとって、本書の主張する理論はこの上ない野暮であることと思う。
創造的な諸活動に携わる皆様においては、どうかこの野暮を許してほしい。
僕も他のみなさんと同様に様々な歌謡、小説、漫画他数々の創造的作品から気づきを得、感動させられてきた。
そしてベルク氏も。

p.375 美的なものとはわたしたちの感覚にかかわるものであり、人間の存在の構造契機というもっとも本質的な具体性に目覚めさせてくれるものだ。

きっと風土学が広く知られるようになっても創造的活動は才能ある方々の手により僕らの想像の斜め上を行く形で現実感のなんたるかを追求し、発展し続けていくと僕は信じている。

また、世界平和をめざす信仰に根ざして生きる方々においては、どうかこの学問の誕生を新しい宗教が誕生する時と同様の寛容さにおいて寿いでほしい。
地理学はあらゆる科学の成果を集めるところであり、近代思想の産物の総体そのもの、そして近代思想を支持する人々の世界観を支える土台である。
すなわち、デカルトから発して以来あらゆる信仰の意義を否定し世界中で宗教離れを推し進めてきた近代思想が独自の論理の総合と省察の果てにやっと信仰という営みの意味するところを理解できるようになったのだ。

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いつもいらすとやさんのフリー素材にお世話になっているが、たまには実写画で

その気づきは自らの視点に転換を求める。

p.348 近代の合理主義は、原爆や南北の不平等を作りだし、市場の効果のもとで風土エクメーネの解体を進めた。これは合理主義は人間の市民体シテを統治することに失敗したことを決定的に証明するものである。だがイデオロギーのひとつにすぎない合理主義と、人間の条件の根本的な要求のひとつである理性を混同しないようにしよう。

近代思想の合理化礼賛は、この世界をいろいろな尺度で荒廃させてきた。
そしてその活動に対する反動が、非公式な場、つまり個人が近代的な社会制度を離れて私的な信条を表すことのできる場では「合理的とはどういうことか」を論理的に問わずして「近代思想が支持する合理ではないことの方が良いことだ・合理的でない姿勢を選ぶべきだ」とする非合理主義として様々な形をとり現れている。

p.346 中国の祖先崇拝はもちろん「名」の社会的な現実にかかわるが、社会的な意味だけに限られるわけではない。祖先の霊は、その名を永遠に受け継ぐ子孫を保護しているのだが、具体的にはこの霊は物そのもののうちに存在しているのである。…環境と人間の身体そのものを浸している「生の息吹」を概念化した中国の「気」の概念が、これと直接に結びついている。
p.348 いまでは「気」が示すような問題を、実験的に、そして合理的に解決するために正面から取り組むことこそが、理性的な姿勢だと言えるだろう。この問題の検討は、緊急を要する。合理主義では人間的な形で世界を管理できないことが決定的に証明されたという口実のもとに、カリフォルニアの「ニュー・エイジ」から中国の法輪功にいたる非合理主義的な運動が、世界を支配するようになるのを防ぐには、ほかに方法がないのである。

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近代思想に問題があるからといって前近代の迷信へ戻るわけにはいかない

ただし公式な場においては、近代思想が念頭においた理性に制御できない不確実性は、新たな制度において論理的に処理されるようになった。

いくら西洋近代思想が世界を席巻したといっても、交易などを通じて真に(その歴史的背景も含めて)その価値観を理解し受け入れるまで、土着の世界観は(部分的に他方の価値観を取り込みながらも)己の歴史的背景に裏づけられながら根強く共有され続ける(暗にヨソの近代思想を否定し続ける)ものだ。
僕は先の日本の事件他の他人の言動を見て、そう思う。
上で「公式な場」と「非公式な場」と表した場の違いは、西洋近代(の思想、すなわち現在は世界標準語を名乗る英語と並んで世界公式を名乗る思想)との関わりの深さによるのだと思う。
そして前者はその近代思想の問題点を部分的に是正する新たなグローバルスタンダードを構築しようと試み、後者は近代思想を成立させた誤った前提に影響されてそれ自体がねじれ近代思想よりひどく人間を害する恐れをもはらんでいる。
後者の中には断舎離(山下英子さんがヨガ等の思想を根拠に創始した思想)のような人間と共同体を共に養わんとする思想も含まれるが、それは個人の現象レベルに立脚しているため科学的視点を擁する近代思想よりも客観的正当性において劣り、その視点の位置故に客観的観点からの検討が難しく将来にわたって正当性を保てるかという不安を排し得ない思想であると思う。
その一方で本書は、主語論理一つを旨とする西洋近代思想を、その視点と知識を元にしながら東洋思想(和辻哲郎や西田幾多郎他の思想)をもその視点に組み入れて構築し直し(主語論理と述語論理の複合を支持して)、それを超える思想として西洋近代思想と正面から対決する構えである。