地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

10 風土学の理想

論理と理性と価値観

風土学自体は「風土」という枠組みと地理学に内在してきた「として」で成り立つ論理を示す学問であるが、判断や行動においてある論理を採用する人間の意思は理性と呼ばれる。
科学という破格の力を手中におさめた僕たち人間が世界を分析するとうそぶきながら解体してしまわないよう、地理学者は読者に理性ある姿勢をとるよう説く。

p.348 イデオロギーのひとつにすぎない合理主義と、人間の条件の根本的な要求のひとつである理性を混同しないようにしよう。

ベルク氏は、人が西洋に発した近代思想を支持する姿勢を投影的理性と評した。

p.428 投影的理性(la raison projective)は、その名前からもわかるように、計画(projet)と進歩(progres)の文明を産み落とした。しかしその間に、まさにポストモダン的な絶望も生み出している。この理性は社会的なものに、社会的なものを投影するだけなのだ。これはプラトンの洞窟から出ることを意図的に拒むことだ。影と戯れることだけに満足すること、それが思想の運命だったというのだろうか。

上の投影的理性を支持する近代社会は、意味のあることすなわち理にかなうこと、合理という言葉を、計画に対して効率を最大化する、そうするために必要な能力は道具の馬力とそれを制御する頭脳の賢さであるととらえた。
そして自分たちにできることをあらゆる可能性を埋め尽くすべく押し広げてきた。
その合理は、理性的である/道理をわきまえたという意味、英語で言うならばrationalにあたる。

一方、ベルク氏は和辻哲郎『風土 人間学的考察』を初めとして東洋思想をとり入れた独自の観点から、「意味」とは「として」すなわち個々の人間にとっては自分本来の人間性を物事において発揮する方向性(〇〇らしさ)のことであり、社会にとってはその構成員が環境と他者と共に発揮している人間性の総体(地域性)であるととらえた。
風土学は多義的だった「意味」の構造を見える化してそれを人間性の原点から導かれるものとして定義し、意味のあることすなわち理にかなうの「理」を理性から意義へと、その発生源は人間の頭脳でなく身体性全体だったという過去の認識へと戻そうとした。
つまり意味とは人間が感じる(諸物の、そして自分の)存在意義であるということである。
だから風土性の示す合理はrationalではなくreasonableの方である。
何がリーズナブルか、どういうことに意義があるかという判断は人それぞれに異なり、故にその理は客観的に求められる命題ではない。
その考え方によると、「合理化」とはある事案についてその場にいる人全員が本来の人間性を発揮できるよう(自分らしく生きられるよう)その意義の調整をとること、ということになる。
近代思想と風土学が最終的に結論を異にするのは、何が意味のあることで何が無駄なことかという基準である。
風土学によれば人の能力の優劣を測る基準は「頭の賢さ」ではなく、「知識の広さと感受性の強さ」にある。
風土学の動物身体と風物身体をふまえて体という言葉を使うならば、(主に風物)身体の質量(=体積×密度)である(動物身体の個体差には限度があるが、風物身体の個体差は無制限に近いため)。
(これは能力の優劣の話であり、僕は人の人間性に優劣をつけようとしているのではない。すべての時代・地域を通じて人間の能力は一様でなく、それはそういうものとして認めるべきだと思う。)
そして風土学は、人間の幸せとは、自分の能力の方向性や大小だけではなく自分のいる場における役割において自分の能力を最大限発揮できることによって決まる(なぜならその場と自分とは本人の認識上連なっているから)という価値観を提唱する。
その実現のためには、人間は自分の能力ばかりに目を奪われず、自分のいる場を認識し、そこにおける自分の役割に目を向けるべきだと風土学は主張する。

p.351 言い換えると、風物身体と動物身体は調和することが望ましい。必要な変更を加えれば、この文はわたしたちのすべてに妥当する。この調和とは、自分が存在するという感覚である。生きることの幸福さということでさえある。
あらゆる人間活動において、ある場(たとえばある地域)のありさまの是非を、その地理と歴史とそこに共存する人(たとえば住民)の視点から具体的に問おうとする風土学の思想を採用することを、ベルク氏は通態的理性と呼んだ。

p.428 わたしには森林の動物が残した足跡は読めない。しかし少なくとも、そこにはある方向と尺度があることは理解できる。
p.428 地から天まで、わたしの全身は同じ身体だからだ。わたしの生が続くかぎり、天と地のどちらでもあること、、、、、、、、、、これがわたしの根本の尺度である。

そのような姿勢でふるまうことは、折々の選択において「風土」(自分と対象物それぞれ)の〇〇らしさ(おもむき)を追求するような判断の積み重ねとなるため、

p.429 自然であるがゆえにさらに人間的であり文明化されているがゆえにさらに自然な文明に進もうとする

ような人間活動をもたらす。
その思想においては人間は自分らしくなれる場に住み、その場のその場らしさをますます深めるような活動を営む。
そのような営みは、自然と人為両方の災難により害されるリスクにさらされ続ける。
それでも人間はそのようなささやかな生き方に甘んじ、生じるリスクを受けとめるべきだとベルク氏は主張する。

p.429 通態的理性(la raison trajective)こそが、この根本の尺度である。この理性は天と大地の分裂によって、人間を切断してはならないと命じる―たとえ人間が人間として天に向かって立つものであり、世界として大地を述語するものであるとしても。

その根拠は近代思想より優れた客観性、つまり風土学の視点が近代思想より真理に近い思想であるからだとベルク氏は主張する。

p.429 これは至高な次元にある客観的な現実そのものなのだ。この理性はわたしたちを宇宙から抽象することなく、世界を脱人間化することがない。通態的理性はこの客観性を、近代の客観主義よりも高い位置におこうとする。