地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

11 認識と現実の矛盾をどう処理するか

近代思想の論理的矛盾

ベルク氏は本書において、地理学を発展させながらその存在意義を失わせようとした近代思想の歴史と本質をも検討した。
そして述語論理を受けつけなかった近代思想の視点は、科学の範疇となり得ないような風土の風性/土性を科学的知識を以て把握しようとする科学主義的視点を含む(客観的であるのではなく、主観によるのに客観的であるように装った)客観主義的視点だったと結論づけた。

p.272 存在するにもかかわらず、その存在を無視することは、客観的なのではなく、客観主義的にすぎない。
同 客観的には、つねに人間の主観性を考慮に入れる必要がある。

風土学は学問の領分をわきまえる

風土学の論理は学問の圏外にある森羅万象を想定するため、それが招く不合理な現象やリスクの具現化した災害や社会悪もまた存在を認めるものの、その是非を論証の対象外に置く。

p.209 もっとも古く、もっとも深い意味=おもむきの問題は、宇宙の起源の問題にほかならない。…宇宙の起源と言う問題は合理的な調査の領域を越えた問いである。そのために意味=おもむきの起源の問題も闇に包まれている。わたしたちはその様態しか知りえないし、すでに意味=おもむきがあった瞬間から出発せざるをえない。この起源を解明できると主張するのは空しいし、偽りでもある。「すでにあった」ところの彼方には進めない。意味=おもむきについて考察できるのは、そこまでである。意味=おもむきの外ではなく、意味=おもむきの内部において考えるしかないからだ。

ただ不可思議な現象はともかくとしても天災や人災は風土学が問う僕らの倫理を脅かすこともある大問題なので、風土学は直接それを解決しようとはしないが、たとえば宗教にその扱いを委ねようとする
しかし自身の姿勢はあくまでも「地に足をつけて天に向かって立つ」すなわち甘んじて受ける、だ。
風土学は完全無欠の思想ではない。
そもそも世界が「風土」状態であるのは人間自身が自分で自覚しているとおりに不完全なせいだと、ある意味開き直っているくらいである。
風土学もやはりある時代の一思想にすぎず、きっと真理そのものではないのだろう。
しかし僕も、現行の近代思想とポストモダニズム他の近代に対するアンチテーゼよりは風土学の方がましな考え方であるというベルク氏の主張に賛同する。
僕らは頭がいいから自分の体に頼らず言葉や道具やAIを使うのだという理屈よりも、僕らは言葉や道具やAIを使って人類という共同体において成長しているという理屈の方が現実を実状に沿って表していると思うし、そう考える方が将来の方向性を建設的に話し合うためにより有効だと思う。
ベルク氏がとり上げなかった管理規格認証制度のような近代思想の欠点を部分的に補おうとする思想も、結局は近代思想に追随しそれを補強しようとする思想であり、人間性の何たるかには関心を持っていないと思う。
僕は社会を管理することは個人の幸福を守る手段だと思うので、後者の何たるかに向き合おうとせずに前者の手法がその容易さ・堅固さ故に選択されることは本末転倒だと思う。