地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 風土学はまだ序説である -1

あなたにとっての序説

「序説」という語は、本題に入る前の前置きにあたる論説という意味をもつ。

『風土学序説』が出版された当時、僕はその書名を見て「ベルク氏は将来、風土学の本論にあたる論説を発表するつもりなのだろう」と考えた。

しかしそのような本は出版されなかった。
ベルク氏は、風景を主題とする研究でさらに哲学的な思索を深めるようになったそうである。
だからベルク氏が本書の題名にこめた思いはきっと、この本が読者一人ひとりの風土学の始まりとなるようにという願いだったのだろう。

「風土」はいつもその体の主を、奇跡的などではない当たり前の顔をして、遠い時空に離れた人と会わせ、彼らが感じたのと同じ(しかしその内実は十人十色の)天をその主に感じさせようとしている。

p.208 ここで強調したいのは、風土エクメーネ的な視点では、時間という考え方を、意味=おもむきという考え方と結びつけるということだ。意味=おもむきは、記号の間の純粋に空間的な関係から生まれるものではないし、純粋に恣意的なものでもない。意味=おもむきは風土エクメーネの時空のうちに展開せざるをえない。ということは、物の本性の「自然の」象徴体系を抽象化することはできないということだ(ここで自然というのは、言語学で「自然言語」というのと同じ意味である)。象徴体系は物の自然をいずれかの方向=おもむきのうちに展開するが、この特定の方向=おもむきは、抽象的な記号の恣意だけで作り出されたものではない。これは具体性、、、のうちに生まれるものである。物の本性、これを表象する記号、人々の生は(記号と物は人々の生にとって存在する)、この具体性、、、のうちに集まるのである。
p.227 記号作用は、生ける〈肉〉の感覚と特定の絆のうちにしかありえない。そして生ける〈肉〉そのものは、物理的な宇宙の法則に基づいているのである。象徴の力とはまさに、この絆を物理的な延長から解き放つ能力である。この力によってわたしたちは、物の無限の多様性の彼方で、自分の身体のうちに世界を取り戻すことができるようになり、〈全体〉との神秘的な結びつきを感じられるようになるのである。
p.235 風土性の視点からは、世界に意味=おもむきがあり、わたしたちが物に感動するのは、わたしたちが世界や物を実存させているからである。すなわち、わたしたちの存在がここに通態され、同じ存在論的な構造のうちに、世界や物をわたしたちの〈肉〉と一体のものとしているからである。

2018年12月に放映された「英雄たちの選択」(NHK BSプレミアム)というテレビ番組が、幕末の志士・西郷隆盛の生涯をとりあげた。
その番組に出演していた歴史家の磯田道史さんは、日本に近代化をもたらすべく活躍した西郷を評して「いま僕たちが見ることのできる西郷さんの姿は、上野にある銅像の方ではなく、新宿の高層ビル(が象徴する近代性そのものが西郷さん)だと思う」という趣旨のことを話していた。
それは磯田さんが史実を愛しすぎて独自に見たまぼろしだろうと考える人は、本書のいう近代的な視点の持ち主だ。
人は本書の説くように現実全体を直視しようと努めたら、やっぱり自分の体からも現時点の「ここ」からもあふれ出て眼前の世界を満たし、離れて生きる人と(かつて生きていた人、これから生まれる人とも)交信してしまうのではないかと僕は思う。