地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 風土学はまだ序説である -2

学問としての序説だったのか?

ベルク氏は『風土学序説』を書いた後に京都大学で教鞭をとっていたという。
僕は本書を読んで以来ずっと、なぜ彼の地から風土学が本格的に勃興しないのか、疑問に思っている。

もしかすると本書の題名はやはり本書が風土学という新しい学問の幕開けとなるべくつけられたのだが、なんらかの事情でそれがかなわなかったのかもしれない。
本書が哲学・思想の知識を持つ人に読み解かれてこなかった理由は、僕には分類上の誤りしか思いつかない。
確かに本書の内容は一見多義的にみえるし、その主張の中にはもちろん(どんな学術書でも共通することとして)誤りも含まれる可能性があるので、それらの要因が複合して本書をなんでもありの地誌に分類させたのかもしれない。
しかし僕から見れば『風土学序説』の言葉づかいは他の哲学書よりもずっと平易で、本書の分類に何らかの形で携わって然るべき哲学の専門家が本書の主題についてそのような見当違いをするとは想像しづらいのだが。
また、たとえ本書1冊がそのような見当はずれな分類に追いやられていたとしても、著者の他の著作群が(一部は書名に「倫理」という語を冠しながら、それぞれ文中で『風土―人間学的考察』と共に『倫理学』をも著した思想家・和辻哲郎の思想をふまえると明言しながら)日本でも深まり続けている倫理的問題に対して投げかけてきた問題意識を、哲学・思想の専門家はなぜ今日まで一度たりとも取り上げなかったのか。
日本で職務において哲学、特に認識論と倫理学に携わっている方全員に、僕は問いたい。

お仕事は何をされているのですか?

あなたは、あなたの職務において、オギュスタン・ベルクの提起した問題にどのような意見を持っていますか?

風土学は前述したように何に意味があり何が無駄かという価値判断について、また現実的な感覚とは/行動とは何をどう感じどのように行動することかという問題を、学問の手続きを経て提起した。
しかしこのような内容の本がせっかく日本で出版されてから16年間、どの学識者からも看過され続けてきた。
そのために本書の批判する、人間を脇に置いて他のものを中心に据えた世界観の共有が続き、自律的に加速するその深化によりここ数年でその悪弊が急激に強まり、多くの人々の生活を害している。
近代的な都市で路上生活を送るといった個人的な生活から、農林水産省による諫早湾干拓事業に対する住民の堤防開門要求が20年間にわたって無視され続けるというような集団的な生活まで、いずれも、問題になっている場で比較的有力な人が共にいる人の尊厳を他のなにかに比せば気に留める価値のないものとして扱う、という形で。
本書はそのような行為を助長している世界観に異を唱えたのに、しかも僕たちの世界観と共通する形象を用いながらそれを語ってくれたのに、ここ日本では読むべき人に読まれて真価を発揮する機会を奪われていた。

筑摩書房が本書に付与した「哲学書」という分類を無視し、本書を地誌・紀行の棚に追いやったのは、誰か。
日本の学問の世界で本書が認識論を主題にしているとみなされなかった原因と責任の所在は正しくつきとめられ、以後このような悲しく不適切なことが起こらないように反省されるべきだと思う。