地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 風土学はまだ序説である -3

他者と対話する努力とロマンチズムの現実性

日本で昨今「泣ける」物語が流行し求められる傾向は、以前に触れた「君の名は。」ブームにも似た共同体への郷愁が呼び寄せていると思う。
僕らがそのような物語に無意識に求めているものは物語自体の様相ではなく、物語の語る現実的な情動である。
だから現実から遊離した空想の物語はこの趣向にそぐわない(ファンタジーは他の娯楽同様、心の表層にある気分を動かすのに向いている)。
現実を見るためには、今あるものだけを見るのでは足りない。
ファンタジーは現実に加えて架空の現象を見せるが、現実的な物語は今あるものとそれを陰から支えるロマンを見せる。
ロマンティックのロマンの語義はフランス語romantisme、すなわち自我の欲求からくる実存的不安、死ぬまで満たされない欠乏感と希求感である。

p.20 人間存在とは、物質的にも〈あそこ〉に実存するものであり、もっと遠くにも実存するということだ。
p.258 意味=おもむきはわたしたちのうちに、物のうちに、すでにかならず〈そこにある〉のである。そこから無限に出発することで、人間の存在の構造契機が、物の本性を世界のうちに、世界を物の本性のうちに、そしてつねに他の場所へ通態するのである。
p.429 通態的理性こそが、この根本の尺度である。この理性は天と大地の分裂によって、人間を切断してはならないと命じる―たとえ人間が人間として天に向かって立つものであり、世界として大地を述語するものであるとしても。

昨年、歌舞伎の高麗屋松本幸四郎家)の襲名披露で 八代目市川染五郎さんも「天に向かって歌舞伎の舞台を生涯勤めてまいりたい所存」と言っていた。
自分の選んだ道を邁進する人たちにとっては常識であるに違いない。
人間がもし原点に立って生きようとしたら、その人生はたどり着けない場所へ向かう道のりになってしまう。
人間らしく自分らしさを深められる道は、そのような道しかない。
生きている限り終わらない…これ仏教用語でいうあの「業」ってやつか。
ロマン主義の本場出身ゆえの視点なのかもしれないが、曲がりなりにも学者に断言されてしまうとなんだか切ない話だ。

(図)おいしそうな物をながめて「満足したら人間終了か?」

しかし人間のその道は、決して自分一人で歩む道ではない。
たとえもしあなたが見渡す限り人のいる痕跡が認められない場に立つことになっても、この文章を読めるようなあなたは決して独りではない。
本書によると、あなたの思考を成す言葉はどれ一つとしてあなた独自のものではないのだから。

(図)

天災や人災や他の生物との勢力争い等々に悩みながら人類の風土エクメーネの泰平を目指すこともまた、人間に課せられた様々の業の一つに数えられるだろう。
「風土」の一種である都市の街並みを例に、ベルク氏はその意味=おもむきの認知、保持、発展を人間の義務だと説いた。

p.404 わたしが希望するのは、場所に対していたるところで、都市という風物身体の一部である人々の存在に敬意が示されることだ ー わたしたち自身に、風物身体としてまだここに生きているわたしたちの祖先に、そしてわたしたちの後で生きる子孫に。

p.407 風土エクメーネ的に思考していれば、都市の形式を尊重することは、都市の形成をコピーすることではない。人々を尊重するということだ。対象を再生産することではない。過去、現在、未来のパートナーと通じ合うことである。都市の形式は、パートナーの風物身体なのだ。パートナーとなる人々はわたしたちに共通の言語で語りかける。この言語のうちで、わたしたちは彼らに答えるべきなのだ。鸚鵡返しに繰り返すのではなく、創造的に答えるのだ。繰り返すだけでは、交信を絶ってしまい、言語を破壊してしまう。力を合わせながら、みずからの創造的なエネルギーを投入すること、これが人間同士の交信の深い意味である。

それは破棄するか、博物館にいれるかという近代の方策よりももっと厳しい要求である。同じく、だれかと話すということは、一人で話すよりも厳しいことが要求される。なんでも話せるというわけではないからだ。しかし他者と話すこと、それは自分にとっても他者にとっても、たがいに相手を豊かにすることだ。たがいに恩恵を与え合う。これは近代の〈対象への停止〉では不可能なことだ。

 ―おや、この過去、、未来、、の「パートナー」という幽霊のような話はいったいなにか。

 ―人間の風土ミリューは、空間の中だけでなく、時間の中でも織りあげられていることを確認したいのだ。実存することは、延長だけにかかわるのではなく、持続にもかかわることだ。だからこそ、共通の存在を侵害するような形で、都市の持続を切断してはならないのである。わたしたちが過去から受け継いだものは、わたしたちの文化であり、人間がたんなる動物であることを許さないものだ。わたしたちは動物とは異なり、子供を育てるようにして、この遺産を次の世代に引き継いでいかなければならないのである。それが人間の義務ということだ。

2つ前の記事で言及したように磯田さんが新宿の高層ビルに見た西郷さんは、その佇まいを気にいっていたのだろうか。
西郷さんは僕らの遂げたこの近代化を、その表の姿と裏の背景を、是と言うだろうか。
本人にそれを問うことはかなわないが、僕たちが自分の心のうちで自分のまわりの物を介して歴史にそれを問う行為は、ベルク氏によるとまったく無意味などではないし、もちろん不合理でもない。
そのような態度は自分の生きる現実を具体的に受け止める態度であり、学者でも実務者でも分別のつく大人全員に等しく要求されるべき態度だと思う。
逆に、そのような問いを発しない、合理性とは事業主からみた効率の大小のことだと割り切った生き方こそ無意味なのだとベルク氏はいう。

ベルク氏の主張する新しい時代の合理性は、やはり学説として検証され、誤りがあれば正した上で共有されるべきだと思う。
もしもその仮説に理があるにも関わらず看過されてしまったら、東京のようにそういう自問を含め住人全員と「自分たちはこれを(その背景を含めて)どうすべきか」と対話することがあきらめられてしまった場所は、いずれ人間の住める場所ではなくなってしまう。
もしも人間らしく生きられるよう居場所を整えることが人間でいることと同時進行するのだとしたら、そのために必要な対話をやめたら僕らは人間でいられなくなってしまう。

結局どちらの意味の「序説」だったのか

読者にとっての序説か、学問・思想としての序説か。
ベルク氏がどちらを意図したのか本書では明言されていないが、本書を世に出した時にこの2つのうち少なくともいずれか1つは目指していたのだろうと僕は思っている。