地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 僕がいま本書ををあなたに紹介しようとした理由

人間の風土性

国民性やお国柄という言葉がある。
世界を見渡すと、確かにこの世界にそれはあるように感じる。
そして風土学は、それを説明するにふさわしい理論と枠組みをそなえている。

p.224 mediance(※風土性)は特定の風土の特異な性質という意味になる。これは社会と環境との関係であり、問題となる社会と環境の関係が非対称なものであるという事実によるものである。

世界に存在するいろいろな風土性の個性の話は、また別の場でしたいと思う。
今は、僕たち日本人と拙ブログの目的のことだけを話したい。

日本人と主体性

風土学の視点からみると、僕ら日本人は「風土」の風性に含まれる情緒に強く惹きつけられる感受性を共有している。
ただし、僕らに対する近代化も着実に進んだ結果として、個人主義の風潮のもとで「風土」の土性は土性で強く求められている。
そんな風土性をもつ僕たちが見ているテレビ内に目立って表れる大衆的な世相は、たとえば

  • AIへの言及(期待と不安)
  • 新薬の広告
  • 自分(国民)の意思を反映しようとしない政治への無関心
である。

新技術と表される事物への依存を強めることが是とみなされ、それを誘いビジネスチャンスを狙う企業活動が強く見てとれる。
そして僕たちは物への依存とは対照的に、人間同士は自立を前提とした社会、共にいる他人(身内でない人)を商業を介さずに理解したり助けたり頼られることは現実的に否(難しい、適当でない)とみなすような社会を目指しているように思える。

日本は危険な銃社会じゃないし、コピー商品が本物の作品を駆逐するようなデタラメも横行してはいない。
それでもこの社会は共同体として、発現すれば致命的になりかねないリスクを抱え、それを放置している。
現在、僕たち日本人の大勢が、「風土」発生に不可欠な不全感はまっとうにもったまま、これまた不可欠な共同体における主体性をいちじるしく失っている
もちろん新技術のような「今はまだ実現していないもの」の開発に携わっている人は別だ。
また伝統的な技術と文化を共に先祖からの遺産として保持する営みに関わり続けている人の姿勢も、もちろん主体的だ。
そのような人々をとりあげるテレビ番組も最近増えているが、それを見る僕らの姿勢は「自分もこの人のようにがんばろう」というよりはやはり「自分は自分。彼らに日本を託そう。」とみなす気持ちがずっと優勢であるように思える。
だって、自分は自分、物は物、人は人それが常識だから。
自分一人が「そんなことはない」と言って立ち上がっても、常識に批判されたら自分の力なんて無いにも等しいだろうから。

上に挙げたような日本の将来/伝統を負わんとする人々は、きっとこの日本社会の歴史的発展に貢献するだろう。
『無欲化する世界』に登場する人々も、技術の開発や伝承とはちがう形で(自分の居場所の選定から始める人もいる)その居場所のあり方の見直し・維持・発展と自分の主体性の模索・回復・実現を図っている。
すなわち日本人は、経済的な貧富などとは別の次元で、共同体に生きる人間としての主体性の有無(極端な多少と言った方がより適切か)で二分されかかっており、その傾向を年々強めている。
問題があるのはあらゆるリスクに対する処置を他人に任せて今・目の前のことだけに注目しようとする姿勢をもった人たちであり、数の上でそういった人の方が人口の過半を占めているように見えること、またその現状を容認し助長しようとさえする風潮である。
もちろん人には社会的主体性がそなわっている事実を否定し彼らの個人×物財偏重姿勢を促したのは、本書が批判した西洋近代思想とその目覚ましい効力である。
新しい技術やシステムの開発に取り組んでいる人たちの中にもその諸刃の剣としての危なっかしさに気がついていない人がおり、そういう人はむしろ主体的に非主体的な人々の主体性を奪い、日本人の二極化を進めようとしている。

僕が拙ブログを書いたのは、前掲の三冊『探検家36歳の憂鬱』『無欲化する世界』『発酵文化人類学』を読み、所有する物財の質や量は人間の幸福に直接かかわるという20世紀末に優勢だった価値観を否定する日本人が増え、これらの本でその感覚を証言することができるようになったと考えたからだ。
そしてこれらの本の主張とは必ずしも一致しない様々の価値観により上のような二極化が進む世相に、強い危機感を覚えたためだ。
もちろんベルク氏が危惧した懸念も含めて、もう猶予はない、全国に通用する制度や技術の上でなにか決定的なことが起こってしまう前に、自分にできる範囲でだけでも『風土学序説』を紹介しなければいけないと思った。
だから、拙ブログのさし絵は不十分だし、文章の編集も改善の余地がある。
僕は絵を描くのが不得手なので、拙ブログの主旨に合わせてさし絵を描いてくれる人を募集している。
また、投稿済みの記事は今後、さし絵に合わせたりまた洗練させるように変えていくかもしれない。
本書の内容は2002年の出版当時からずっと同じであるし、その解釈1人分が多少変わっても問題なかろうと思っている。

話を戻すが、主体性のある人とない人がいるならばその両者が連携し、国で一体となって全員の人間性を保てればそれでいいじゃないか、という意見もあるかもしれない。
でも、もし国全体の収支バランスに問題がなくても国民ごとの貧富格差が大きかったら、その国の国民は不幸だといわれるじゃないか。
やっぱり主体性も国民一人ひとりにおいて十分に発揮できなかったら、国全体を幸せになんかできないんじゃないか。
あと、国全体で目標を実現できればOKって結果的に全体主義じゃないか。
一人ひとりが個人主義を貫いた結果なのに?
個人主義を選ぶ人は全体主義を嫌っていたのに?
人が他人(の意思や物財)をあてにすることはだらしないこと、人からあてにされているという自負はお節介な介入にあたるから、それぞれがAIを買ってそれを頼りに自分のしたいことを実現するというのか。
AIなら何をさせても人権侵害にはあたらないので、僕たちは人間にもできるあらゆることをAIに頼もうとしているが、本心では奴隷がほしいのではないか?

日本の現状は、主体性を発揮したい人(たとえば事業の経営主、官僚、政治家、自分の本を出すような才人 等)だけがそのようにして、それ以外の大勢が彼らを支持し彼らの後についていくという構図になっている。
被雇用者や有権者を自ら率いている人は、自分についてきている人たちが自分を支持せずそれぞれが好きなことをしだしたら収拾がつかなくなると言うだろうか。
でも、現在主体的に生きている人の中には、たとえば詐欺をしくむ人など積極的に犯罪を働く人ももちろん含まれる。
主体性を十分に養わずに社会に参加したせいで、消極的に社会を混乱に陥れる人も増えている。
現状の体制には社会悪を抑え込めていないのだから、大小の社会悪を迎え撃つ覚悟で住民全員に積極的に主体性を発揮させることが愚かだなんて言えないと思う。
どんなに閑散とした駐車場でも引かれたラインなりに駐車する人や、どんなに混雑した駅でも列をなして電車から乗り降りしようとする人々を見るにつけ、日本人とはなんと後先とまわりへの、つまりその場のおもむきへの感受性の強い民族かと思う。
そういう僕らだったらもっと自分の感じるように行動しようとしても、この社会の画一性をもっともっと突き崩そうとしても、大丈夫だ。
まわりの人や事物が自分の心に映す象徴性でなく、その裏にいる実際の人や事物の多様性を見通してそういう態度を保つことのできる僕らでいられるなら、たとえ失敗が続いたとしても、きっと大丈夫だ。
頭が良くてやる気やお金のある人がその他の人を率いる体制をとる方法では、その社会を最善の方向へ導くことはできない。
それよりも、住民全員が納得する最善の方向とはどちらなのかを明確にすること、懸案については

  • 不可抗力
  • 必要悪
  • 他者への配慮不足
  • 他者への悪意
上のどれに当たるのかを(本人の身体や財産の区別以上のことを鑑みて)明確に区別する論理を、住民全員で共有することが肝要なのではないだろうか。
たとえばこの風土学が提唱する「風土」と「として」のような論理を。

p.334 現実には、認知科学が明快に示したように、わたしたちは身体をもって考えるのではない。わたしたちの身体こそが考える、、、、、、、、、、、、、、のである。そして身体は孤立して思考するのではなく、かならず物理的および社会的な環境とともに思考する。

この視点を切り拓いたのはメルロ=ポンティである。そして思考するためには頭が必要だという平板な自明性から遠く離れた場所まで運んだ。実際、問題となるのは脳の生理学的なメカニズムだけではない。脳のメカニズムだけを問題にする視点は、近代のパラダイムのうちにとどまっている。問題なのは、思考の性格そのものであり、そのすべての様態である。だから風土性の視点からは、動物身体と風物身体の接合の構造契機が問題となる。要するに、思考は身体性をあらわにするということだ。

上の引用文は比喩として、人間の共同体という(そのメンバーにとって)身体(も同然の存在)にも妥当すると思う。

p.406 ー具体的にはどういうことになるのか。
―そうだね。他者の存在への敬意を失わない事だろう。…共通の秩序とこれみよがしに断絶しながら、他者を妨げるのはやめるべきなのだ。だれだって、バスで座席に座りたいために、他人を殴って席を奪ったりはしないだろう。

本書は、人類に「共通の秩序」は、近代思想とは異なる論理を擁するはずだ、と主張する。
現在、日本で秩序を定め守る自負をもつ立場にいる多くの人が、人間は天から与えられた秩序を己の自由さから守り己を律しさせるべきだ、と考えている。
しかし、人間の世界の秩序とは、人間の世界の実際の多様性から独立して存在するものではない。
本書は、文明社会における秩序を静的なものととらえる思想、対話を拒んで既存の秩序を守ろうとする態度は、個人がそれぞれ物事から受け取る象徴性に振り回されることの社会版に等しい愚行だと主張する。
人間が文明に秩序を定め守るという行為は、実は際限なく多様な他者と対話を続け、その秩序を運用しながら改定し続けるという営みそのものなのだと思う。

経済や人間関係に関して自分が陥っている状況を自力だけで変えるのは難しいが、自分の主体性はまず自分から変えるしかない上に自力でかなり変えていくことができる。
人が人間として主体的に生きるためには、自分のいる場所のあり様と自分のあり方を連動する一連の現実として具体的にとらえる必要がある。
たとえば前に述べたように田舎の世間の内で貧富の差が広がらず共同体が安定して持続するのは、富める人が自発的に共同体に自分の富を還元するからこそである。
何事もあなた自身のために、目先のことだけでなく過去、将来、まわりとの兼ね合いを視野に入れて相手の身にもなって判断することが、あなたの現実における身体感覚すなわち主体性をよみがえらせる。
僕らの行動が主体的になれば、たとえばその代表格である消費行動が変わったりすれば経済にその影響が現れ、経済以外でもいろいろな形で現れている個人間の社会的格差の解消につながるのではないかと思う。