地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

5 現実を直視する

こうできる=生物全般が持つ能力

昨今日本の大衆の共感を集める表現やその自発的な動きを見ていると、かなり大勢の人が、その主体性の有無にかかわらず、心の底では和辻氏とベルク氏が提唱するような風土性という原点に立った人間性を強く求め発揮したがっているように思える。
特に生死に関わるような物理・生物次元の問題に直面している人は別として、自分の住む場所に「閉塞感」「希望がない」などと不平を訴えている人は、一度本書の主張に耳を傾けた方がいいと思う。
ただし、そのような表現とそれに感動する大衆や彼らのささやかな活動を鼻で笑い飛ばして(たとえ脱税ではなくとも)節税に励もうとするような人が本書を読んでも、馬耳東風に終わるだろうけれど。

かつての世間の「お互い様の精神」は、メンバー全員が主体的にのぞまないと成立しない。
自発的に共同体のために行動を起こそうとする人も、まわりが受け身な人ばかりだったらその行動を続けられなくなってしまう。
一部のメンバーが受け身で、自分からは何もしないだけで、たったそれだけで、この共同体は立ちゆかなくなってしまう。
ある場にいる人全員が、そこで自分と仲間のために自分にできる、いや、たとえ難しくても無理があっても、ぞの場に降りかかるリスクのために自分が今すべきだと思うことを実行して、初めてそのような共同体は成立し得る。

p.19 わたしたちの実存の本質は、この〈そこにある〉の外では、もはやなにものでもない。

だから僕は本書の主張を日本人全員に届けたい、そしてできれば理解してもらいたい。
ちょっと突飛に聞こえるかもしれないけど、あなたにとって(かつ客観的に)あなたのまわりの物事はあなた自身(と他者の身)の(共同)体にあたるのだと。
あなたのするすべての選択は、たとえば店である品物を買うも買わないも、その店からあなたの関わる「そこ=世界」の中の人全員に伝わっている。
その選択の後先(歴史的)左右(地理的)の背景・意義もまた、あなたのリアルではないか。
お金だけ払えば自分の目前の用は足せて、その後先のことは他人に丸投げできて、できるけれど、その現実全体のつじつまはそれで合っているのだろうか。
他人はともかく、あなたはそういう暮らし方に心から納得しているだろうか。
そういう暮らし方は、あなたにとって無理なく自然だろうか。

〇〇としてこうすべきである=人間特有の能力

現実的に問題となること、つまり様々な意味=おもむきは、異なるもの(者々と物々)が関わるところに生じている。

p332 問題なのは、思考の性格そのものであり、そのすべての様態である。だから風土性の視点からは、動物身体と風物身体の接合の構造契機が問題となる。要するに、思考は身体性をあらわにするということだ。

その接点にある、今まで強く意識せずに(常識に従って)区切っていた「自分の範疇」「あの人の範疇」「だれかの範疇」は、地理的・歴史的な観点から本当に妥当な境界線で区切られているのだろうか。
拙ブログは僕からあなたへの問いかけである。
本書の視点から自分の足下から周囲へと見回していったら、「いま自分にできること」の範囲と内容、すなわち自分の範疇はどこまで何をすることにあたると思いますか。

p.384 風景とは物質的なものと非物質的なものが接合し、生態学的なものと象徴的なものが接合する場所である。人間が生き延びるためには、いずれは経済、技術、生態学の三つが調和しなければならない。環境についてはわたしたちは、その全体ではないとしても、分野ごとによりよく管理することに成功している。そのために、すべての場所で適用できる措置や客観的な方法が存在している。しかし風景についてはそうはいかない。風景は共通の尺度をもたないものであり、それぞれの場所で定義し直す必要がある。だからこそ風景と自然のシンボルについての都市の市民の要求が、市場にふさわしい生産によって存続している農業と、うまく折りが合わないようなことになるのだ。

上の例の都市の市民と農業者は、地理学者が挙げた一例にすぎない。
あなただってあなたの世界で、他人との関係において、絶対に主役級の役割を果たしている。
そして他人もその世界で別の主役を張っている。
ベルク氏は、人々が自分の役割において他の役割の人と対話しながら、主体的に共同体を運営する様を「自作自演する映画のようなもの」(p.388)だと述べた。
立場(役割)の違う人同士が納得いくまで話し合わないと現実は映画のようにまとまらないし、まとまりのない現実は必ずその演者と舞台共に衰退する。
この分業社会で演じる本人にとっても、自分とは異なるの役割を担う他者との対話で認識を補わないと(実存に必要な)その社会の理解はとても必要量に追いつかない。
自分の生活に(深く/浅く/目に見える形で/縁の下で)関わる事物はすべて「として」で認識できるはずで、それらはまたそれに関わっている人すべてにとってその(生活の、そして人生の)一部である。
僕は、物質的な豊かさに反して感覚の上で画一化し衰えつつあるこの社会の衰退を止めたい。
それは、社会の人全員が自分の役割において臆することなく他の役者たちと話し合えること、自分たちにとって○○は本当はどうあってほしいか、そうするために自分は▽▽としてどうふるまうべきかを考えられること、全員がそうしようとする他者を否定しないような態度をもつ社会でなければ、決して実現できないと思う。