地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 風土学は政治の普遍的原理にあたる論理を示す -1

政治と倫理の邂逅

人が物をどう扱うべきかという問いは倫理学の範疇である。
物を扱う人が2人以上に増えた際、その問いは倫理と同時に政治の色を帯びる。
バッタリ行きあたった2人が道を譲り合うひとときの「アッ スミマセン」から一国の政治まで、ある場に共存する人々がどうふるまうのがベストなのかという政治的思考に、風土学は一貫した論理を提示できる。
人と物においてその風性と土性を区別してとらえた上でその場の「として」でつなぎ、どの人も共にできるおもむきを維持・発展させるべしという一貫した論理を。

しかし実際のところその問題は、関わる人が1人でも2人以上でも本質において同じなのだ。
本書が主張するその本質とは、人間の存在の構造契機すなわち人間性の原点、風土性である。
人は常に個人でありかつ間柄でもある人間として存在する。

ベルク氏は人間を複製しようとするふるまいを批判していう。

p.367 クローン化は人間の存在の構造契機に反する。人間の存在の構造契機とは、差異と同化における次の三つの緊張関係のうちに生まれるものだ ー まず人間の解剖学的な身体と、これを超えて身体を包み込むもの(環境)との緊張関係、わたしたち自身と他者、すなわちわたしたちに似ているが、おなじではない存在との緊張関係、そして最後にわたしたち各人のうちでの述語と主語の緊張関係。

クローン人間は人間が己の限界を超えようとする、特に有名な事例である。

p.368 (※精神分析者モニク・ヴァキンは)他なるものについての無知を示すこの子供っぽい祈念を、自我の分裂、、、、、の状態に譬えている。これは自己から切断され、もはやなにも感じなくなっている倒錯した患者の状態である。本書のテーマとの関係では、ここにあるのは、解剖学的な身体をもった抽象的な「わたし」と、その身体性、他者、世界との分裂である。

この譬えは、風土性を作り出す第三の緊張関係について考えさせる。人間存在はその反省性のために、自己の述語であると同時に主語でもあるからだ。述語であるのは、人間の意識はみずからを代表する「わたし」として自己を把握する(述語化)からだが、把握される自己は論理学の用語での〈主語〉である。ところですでに確認したように、思考はその一部しか意識にのぼらせない。そして残りの無意識の部分も、思考の一部を構成しているのである。ということは、わたしたちは意識においては、みずからの一部しか述語できないということだ。残りの部分はもっと広い自己述語にかかわるものであり、集合的な無意識と呼ばれる。これは自分と似た人間に、さらに深い意味では生に、究極には宇宙に由来するものである。意識はこの自己述語の上位の部分にすぎない。そして意識に対して下位にある部分は、述語に対して主語の位置を占めるもの、決して述語にならないものである。それはわたしたちの自然ということだ。

p.369 その意味で、それぞれの人間存在のうちに、自己の述語であり、主語であるものとして、ある緊張がある。…

他者と環境との関係にかかわる必然的な緊張のもとで、すなわち風土性のもとで、「わたしは存在する」と語ることのできる存在が生まれるのは、まさにこの緊張からである。わたしたち各人のうちにおいて主語を述語に還元することはできない。それはまさにわたしたちが他者に帰するものであり(社会の〈考えられざるもの〉の次元で)、生に帰するものであり(肉の〈考えられざるもの〉の次元で)、宇宙に帰するものである(わたしたちを構成する物理的な要素の〈考えられざるもの〉の次元で)からである。わたしたちが実存しているということ、それはわたしたちがみずからのうちで抱えている還元できない〈昏さ〉のおかげなのだ。この存在を「再生できる」と主張することは、無責任な虚栄であり、犯罪的な還元主義である。この存在についてわたしたちはごくわずかな部分しか認識していないし、この存在がなにであるかを認識することは、存在論的にも論理的にも、できない、、、、のである。

「として」は地理学に潜在していた論理だが、風土学の論理全体は地理学だけに由来するものではない。

p.18 存在に地理性があるということは、地理学者が存在に自分の地盤を確保するほんらいの権利があるということではない。また哲学者が同時に地理学をすることで―たしかに有名な実例はいくつかある―、存在の地理性の次元を自分のものとして僭称する権利があるということでもない。ここで問題になっているのは、地理学者が専門家としてなにをするかではないし、哲学者が地理学者をまねて、学問として地理学を営むかどうかでもない。重要なのは、人間という存在が大地にみずからの存在を刻み込んでいるという事実であり、逆にある意味では大地によって刻み込まれているという事実である。地理はまさに、この〈意味〉を問うのである。

拙ブログがここまで明かそうとしてきた本書の主張の顛末は、(人と物の関係とその関係を具現化している世界という場の多様性を研究する)地理学者(と地理学が参照する自然科学・社会科学)が、(自分たちが暗黙の前提にしてきた)実存(すなわち人の本質と本来的な生き方)を新たに研究の対象に加え、自分たちの知識を用いて実存哲学の業績とともに取り組んだら、哲学者たちだけでは解けなかった問いが(解決の成否はともかくとして理論上は)解けた、ということである。
そしてつまり、本書にアイディアを提供した和辻哲郎はすでにその解に気づいていた可能性があるということだ。
(僕は浅学にして和辻氏の著作を『風土 人間学的考察』の冒頭第一章までしか読んだことがない。だから次の記事から述べることが和辻著『倫理学』他の著作とどのように関係するか僕にはまったくわからない。)

その問いとは、政治の原理たる倫理の構造である。