地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

2 風土学は政治の普遍的原理にあたる論理を示す -2

風土学が提示する"風土「として」論理"

以下、僕が本書を読んで考えたことを述べる。

ベルク氏が提唱した風土学の視点は、主体的問題の原理を明かす。
よりわかりやすい言い方にすると、ある場にいる主体にとってある命題が適当か否かを判断する論理的な基準を示す。
その方法は、なにかを問題にする時に自分が(または他の人が)下のように言えるかどうか、下のように言ったら文章が意味を成すか(文章の意味が通るか)どうかを考えればいいだけだ。

「[主語]は(何者かとして)(対象を)(何かとして)[述語]する。」

たとえば

「僕たちは日本人として箸を(食器として)使う。」

ここで、もし僕が僕たちを日本国民(または民族)全員と想定していたら、この文はまったくの間違いである。
本書において主語とは、「風土」でいうところの土性、すなわち地理学でいうところの生態系と物理学の範疇(つまり自然科学の範疇)+科学でも認識不能な物の本性である。
だから、ある人が真に主語として使えるのは一人称(わたしや僕など)だけである。
(本書にしたがって厳密にいうと人には必ず言語化できない本性が含まれるため、母語を用いて僕や私と言うことさえ真に主語にあたる事柄を表すのに不完全ではあるのだが、それを言葉を用いて示すにはとりあえず一人称を使うしかない)
風土学の視点からみると、他人の心身を客観的に理解することなく自分の心身と同一視することは、明らかに現実に反する。

もし
「僕は日本人として箸を(食器として)使う。」
と言えば、は自分でこの文の意味を考え、それが妥当ならば「そうだ」、妥当しないと思えば「そんなことはない」「そうとは言い切れない」などと言い、それで是非の判断は済む。

では現実的に「僕たち」という複数形や、自分以外の事物を主語として用いることはどんな場合でも不適切なのか。
そうではない。
たとえ他人や事物でも、自分がその人の心身のあり方(事物ならそのあり様)を客観的に理解していれば、たとえば授業や行事を通じて性格も体格も互いによく知れた3年1組31人であったら、その中の1人が「僕たち(31人)は(日本人として)箸を(食器として)使う。」と言うことは論理的に可能だ。
もし、その中に手の指がなくて箸を使いづらいのでスプーンなどを常用している子がいたとしたら、この文章は間違いになるし、そもそもこのクラスを代表しようという子はこのようなことを言おうと思わないだろう。
そして日本人らしい食事のしかたとはどうすることだろう、と改めて別の疑問をもつことだろう。
そのスプーンを常用する子がたとえ箸を使えたとしても、「箸でなくスプーンを使う方が自分に合っている」「それと自分が日本人であることとは別問題だ」と考えてそうしているなら上の文は間違いになるし、このクラスを代表しようという子はやはりその子の意思を無視してこのようなことを言うべきではない。
そのようなことがある集団において政を執る、その集団における為政者となるということではないかと思うのだが、いかがだろうか。

政治を取り仕切るという活動は、手段は別として、その目的は前に例に出した日本の世間と同じ、みんなで生きる自由を実現することを目指して行われる。
その活動は、本書の言葉を用いて抽象的な言い方をすれば、活動の場の範囲を定めた上で、その場に中にいる人全員のおもむきの最大公約数的なおもむきを実現することである。
具体的な言い方をすれば、個人ごとに異なる意味=おもむきつまり自分らしさを展開しているその成員全員にとって、その場が意味=おもむきのあるようにすること、つまり全員が自分らしく生きられるように場の秩序がどうあるべきかを考え、また人々に各自の意味=おもむき(自分らしさ)を場の秩序に沿わせるよう促すことである。
その場にいる全員を取りこぼすことなく。

ベルク氏は本書でたびたび「現実は具体的に認識しなければいけない、抽象化してはならない」と強調する。
そのように世界の多様性を研究してきた地理学の観点から人間の生き方を問うたら、「誰かの存在を特殊だ例外だなどと言ってこの世界から省略しようとしてはならない」という結論が出たということだ。
多様な人が関わり合う場でそんなことは実現できないと言われそうだが、できるかどうかは別として理屈はそういうことだ。