地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

3 風土学は政治の普遍的原理にあたる論理を示す -3

間接民主制に有権者全員が主体的に関わる手順

自治体や国の規模で行われる政治では市民/国民全員の心身の実体(土性)を把握することが困難なため、日本では間接民主制がとられている。
たとえそのように理屈とは異なる方法で政治が実現されているとしても、その手法の不完全さを自覚し、安易な言葉を用いてはいけないと己をいましめられる人がその為政者とならなくてはいけない。
制度を通じて為政者にその権威を与える有権者は、自分が選んだ為政者の言動を前記事で述べたような"主語述語+「として」の論理"において監視し、行動上の問題の他、発言に倫理的な偏重や論理的な不整合があり過ぎるようならば他の政治的主体(有権者)と共にその為政者を降ろして別の策を講じようとするべきである。

僕は、為政者自身には論理に支えられた指導力と判断力さえそなわっていれば、他の実務能力は実務を引き受けてくれる他人さえいれば必要ないと思う。
為政者は何よりも、人々が住む場の秩序を維持しながらその多様性を弾圧しないという2つのことを同時に成す能力に優れるべきである。
だから、為政者となる人には、地理学及び哲学に類する、たとえばこの風土学のような、現実における認識の範疇と人間に説明のできない範疇の区別をつけ、両方を認める論理力が要求される。
必要なのは他人への思いやりでも、効率や機能を追求する態度でもそれらの折衷でもなく、人間の世界すなわち現実の物事のどうにかなることと絶対どうにもならないことを論理的に見分けて、たとえ自分の意に反してもその論理に従って事物を配する能力だと思う。

政治的に適正な話し方・考え方

のチェックポイントは以下だ。

絶対に主語を省略して話さないこと。

たとえば「日本人として箸を使う。」という文は、何事であっても現実化するために欠かせない「誰が」を欠いた非現実的な物言いである。
非現実的なことを口に出していると、考えの上でも現実とそれ以外の区別がつかなくなってしまう。
たとえば全体主義のような実は大勢のてんでばらばらな人々が1つの生き物であるかのような非現実的な話であっても、その具体性を意識せずに言葉として受け入れてしまうと、いずれ自身の思考がすっかりその雰囲気にのまれてしまう。
何かについて現実的に考える必要があるときは、意識して「僕は○○を…」などと主語をつけて考え、また話すべきである。

物事の現実を鑑みて、正しい主語を選ぶこと。

何気なく「僕たち日本人は…」と口にする行為は、主語(僕)と述語にされるべき事(日本人である)とをごちゃまぜにしている。
ベルク氏は本書でくりかえし、主語(論理)は述語(論理)ではない、土性は風性ではない、トポスはコーラではない、と主張している。
論理的な主語とは、上で述べたとおり物における自然科学的な側面であり、いうならば物事の物だけである。
人間ならばただその人の心身のあり様だけを指そうとすべきである。
そこに事(性別とか所属など述語にあたるようなこと)を混ぜようとしてはいけない。
物事の現実的なあり方を考える話では、話者が(科学的にでなくてもいいから)その客観的なあり様(側面、本書で言う土性/トポス)をくまなく把握している人や物だけを主語に含めて話すべきである。
前記事の3年1組のスプーン使用問題のようなことを言う、他者への配慮が不足した人/他者と妥協できる道を探るよりも敵対することをいとわず優先しがちな人は、政務を執るのはともかくとしても、決して他人を巻き込む政治的判断を下してはならない。
あなたはそう思いませんか?
物でも人でもそれを主語にして論理的なことを考える際は、その対象を客観的に把握している必要がある。
もし人間を主語にする時、自分が他人の心身のことを本当に知っていると言い切れないときは、主語を「僕は/私は/自分は ...etc.」と一人称に限って考え話すべきである。
するとその話でわかることは、自分のことに限られてしまう。
それでもやはり他人についてその問題をもっと掘り下げたいときは、当事者に「あなたはどう思うか」をきちんと確認するべきである。
(実存を目指すふるまいの要するこの種の手順が、実存を無視したふるまいに比べてそれを煩雑かつ難しくしている)
「自分は誰某を思いやっている」などと言って、他人の心身のあり方を本人以外の人が一方的に決めることは、現実を歪めるきっかけになる。
以前に紹介した近代西洋の投影的理性も、相手という主語に自分という主語をかぶせるという論理的混乱によって、西洋人いわく未開人という他者の尊厳を悪気なく踏みにじるような蛮行に踏み切ってしまったといえる。

僕はあなたにただ「他人との共感を切ってほしい」と言っているのでもない。
痛いとかひもじいとか自分の家がつぶれたら困るとか、人間ならばまたは生物ならば常に「そうだ」と断じることができる事柄なら、その場のおもむきの維持・発展のために「僕たちは/私たちは」という主語をむしろ積極的に採用しながら判断すべきだろう。
ただし衛生の観念など文明以上のレベルのこととなると、意外と万国・万人に共通していない感覚というのは多いものだ(地理学者や文化人類学者に聞いてみるといい)。
他人のそれを知りたいときは、本人に聞いたり、それが不可能ならばその分野において信頼できる専門家の意見を聞くこと。
それは他人の感性を独自に想像することよりも、はるかに現実的に有効である。
そしてそれを本人(複数なら全員)以外に尋ねる場合、それに対して意見を述べている人もあなたと同じくまた本人ではないのだからと疑う心を忘れず、なるべく多くの人に尋ねるなどして結論を推論するよう気をつけるべきである。
現実の主語(土性/トポスすなわちまったく無意味な客観的事実)を誰かの主観で勝手にポジティブ/ネガティブに曲げて認識して、本来の主語を傷つけてしまわないために。
自分が(他人が)(←誰がなのか客観的・論理的に間違いないように判断して!)現実のどの尺度の面を(←客観的・論理的に間違いないように判断して!)どう感じているのか(←常識などに左右されないで自分の感覚に直接問うて!)、正しくとらえきるために。

自分(たち)は何者「として」、物を何「として」事を成すのかを、言葉に出して意識すること。

「として」は、その話が適用される場の範囲を区切る。
もし「男として」なら、その話は古今東西の人類全員のおよそ半分にあたる男性全員に妥当しなければおかしい。
また同時に「として」は、その話に暗に「すべきだ」をくわえて、話が倫理的に是か否かを判断するために必要な範囲と命題の両方を明確にする。
話そのままの言い方よりも、「として」をつけくわえた方がその話の論点と範囲が誰にとってもわかりやすくなる

「[主語]は(何者かとして)(対象を)(何かとして)[述語]する。」と言ってみたら、なんだか意味が通じなかった、またはなんかそれ違うなと思った。

この「意味」は、その文章の意義、主語にあたる人(たち)が自分(たち)らしく何かをできるかどうか、にあたる。
 あれ、この文は主語にあたる人(たち全員)には、必ずしもあてはまらないな。
 あれ、この文は主語にあたる人(たち全員か一部)にとって、むしろ不利益になるな。
 あれ、この文の主語に当たる人たちは思っていたほどたくさんはいないな。
 あれ、主語に当たる自分がこの文のとおりにするのは、変だな。
 あれ、主語に当たる自分がこの文のとおりにするのは、嫌だな。
論理的に整理した後でもその前段階でも、物事を見聞きして生じた違和感は絶対無視しないで、ぜひ注目して検討してほしい。
現実で自然に発生した意味を人から人へはこぶ器たる言葉には、物事に元から備わっていた意味を変え、それを通じて人の感覚までをも変える力がある。
違和感を覚えたことでも、繰り返しそれに反する言葉を言い聞かされていると、その違和感は打ち消されて人にとってそちらの方が当たり前の現実になってしまう。

たとえば太平洋戦争中の日本の有名なスローガンを例にとれば、きっと日本人は「僕はほしがりません、勝つまでは」と(これとは別のスローガンでかもしれないけれど)そういう意味合いのことを言わされていたんじゃないかと思う。
当時、日本人は日本中で戦争標語を自分事として唱和していたけれど、初めに先入観なしでそう言った時には絶対「僕は/私はそうじゃない」と思った人がいたはずである。
上で挙げた標語なんて、何かをほしがるのを我慢することはできるけど何も「ほしがらない」のは坊さんでもなかったら生き物として無茶だ。
もしかして標語に反発した人はけっこう多かったんじゃないだろうか。
(以上、僕は史実をふまえずに自分の意見を言っており、根拠はない)
でも、繰り返しそう言葉に出して言い、まわりの人々から聞かされることで、中には感覚が変わっていった人もいるだろう。
そこまで深く考えずにそれを言い聞かされた人は、言葉に引っ張られて欲求を我慢することを自然なことだ、自分もそうだと感じるようになったのではないか。
だから戦争が終わるまでずっと、あのような標語は日本中で過半数の人々に支持されその意味を保って唱和され続けたのではないか。