地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

4 風土学は政治の普遍的原理にあたる論理を示す -4

もし風土学の視点の正当性が世に認められれば、人間のあらゆる政治のしかたがトップダウン(上意下達方式)優位からボトムアップ(積み上げ方式)優位に変えられるかもしれない

拙ブログを書き始めた時、僕は風土学の論理には日本人の政治離れを止める力がある、といった程度に考えていた。
だから「近代化以前は公が私をシームレスに制していたが、近代化が公と私を分け、これからは私が公へシームレスに…」などと述べようかと考えていた。
でも、僕自身は政治のなんたるかをよく知らないので、政治に通じた人に本書のことを理解してもらって助言をもらいたいな…とそこまで考えて、やっと気がついた。

本当に僕は、政治のなんたるかを知らなかったのだ。
ベルク氏は本書で倫理と公民という言葉を使っていたが、高校で地理を選択した僕は、倫理や公民が実際に僕が暮らす国の政治のあり方を問う(問う資格のある)学問だとは考えていなかった。

p.378 現代においては建築、都市計画、土地の整備などは、人々の知らないところで、特例に依拠しながら、概念のテロルのもとで実行されている。個々の身ぶりからこれみよがしに断絶しながら、テクノクラシーの横柄な態度においてこうしたことが行われる時代には、もはや終止符を打たねばならない。これは外にある「拡がりのある事物」にではなく、わたしたちの存在に手を触れることであり、最高の意味で「市民的な」価値をもつことなのである。これはなによりもわたしたちの子供たちの公民教育の対象となるべきものであり、民主的な討議の対象となるべき事柄である。

上の引用はベルク氏が自身の専門とする建築や都市景観を例にとって述べているが、風土学の視点からは人間の生活に関わるどのような物事でも、上で述べられたとおり「外にある「拡がりのある事物」にではなく、わたしたちの存在に手を触れることであり、最高の意味で「市民的な」価値をもつこと」だ、といえる。

僕は公民教育に含まれる倫理でもそれに先だつ道徳の授業でも、「他人への思いやりをどうもつか、それがなぜ大切か」なんて教室で過去の例を見せられて頭に入れるようなことじゃないだろう、この学校で起きている問題ごとだけでもいいから大人の姿勢ってやつで答えてみせくれよ先生、などと思っていた。
自分のとっている姿勢を不問に付しながら。
そしてその授業が説く思いやりみたいな心持で、行政・立法・司法みたいな煩雑な仕事をこなせるわけもないだろうと考えていた。
地理と同じく、その主題に対して問題意識がないわけではなかったが、それを誰にどう問えばいいのかわからなかった。
人間の肝心なところは自分の体(主に脳)の中にしかないという前提から疑うなんて、とても自分だけでは無理だった。

政治が求めるべき最大公約数の内実

代表者が仕切る政治とは、そのメンバー全員とメンバーが活動する場全体との調和を求める活動である。
その場を俯瞰して見て取れた事実の最大最大公約数として、つまりトップダウンでそれを求めることは、実際には(代表者が俯瞰しただけでは見て取れなかった)多少の取りこぼしもやむなしと割り切った態度である。
また最大公約数(公約数すなわちもとにする値以下の値)という言葉には、人間は一人で必要十分な存在であるので、その人が最低限度必要とするだろう価値を分配するという目的意識が表れている。
かつて、ある地理学者が哲学に出会う以前、近代的な視点からは世界の現実とは誰にとってもそういうものだとしかとらえられなかったため、みんなそのように割り切ることにしていたのである。
そしてそのような政治から切り捨てられ居場所を追われた人々は、自分をものの数にいれないその場の人々と政治体制を敵視するようになる。

しかし現実の分析値を再構築してみせた風土学の視点から見れば、政治が求めるべきことは鳥瞰図から読み取れる最大公約数ではなく、その現実を生んだメンバーすなわち自分を含め今ここにいる+古今東西そこにいた(来るだろう)全員の「自分らしいふるまい」の妥協点たる公倍数(すなわちもとにする値以上の価値)を実現し発展させるための仕組みである。
メンバーの活動の公倍数たる価値は何でもありのかけ合せより、全員の実質的な必要性を満たす最小の価値を想定する方が、その実現コストは抑えられる。
僕はメンバーが目指すべき最小公倍数が、すなわち為政者が手腕をふるうべき範疇だと言いたいのではない。
ある場における政治は、そのメンバー全員がその場の歴史と地理を鑑みて自分自身のために妥協し納得できる最小公倍数の活動を実現するために、メンバーから主体的に要請されることを助けるべきだ、そのようなことができる仕組みを作るべきだと言いたいのだ。
そのためには

  • メンバー一人ひとりが自分の立場においてすべきことを考えられるよう、風土学の示す現実的な視点をもつこと
  • メンバーそれぞれが自分の個性をその場の地理的・歴史的方向性に沿って発揮することのできるしくみを、その場に整備すること

上のように、主体性を発揮する側と受け入れる場の双方にそれを促す流れを整えるために、まずはその流れ(地域性)現在まかりとおっているような世界から見分けてとらえようとする姿勢をもつ必要がある。
もしある場においてメンバー全員が自分の役割において自分の力を発揮できれば、その場及びメンバーの存続と発展のために必要かつ本人たちだけでは賄えないことは(特に利害関係が複雑な部分や、大多数の主体性が届きづらい周縁部などに)かなり絞り込まれると思う。
メンバー一人ひとりが既に共同体中の物を身につけた巨人も同然なのだから。
ある場にとって上の2点を実現することは、その政治に求められるコストを長期的・巨視的な観点からは抑えることにつながるのではないかと(客観的な根拠はないのだけど経験上そう)思う。