地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

5 風土学は政治の普遍的原理にあたる論理を示す -5

行政以外の政治

前に述べたとおり、政治とその論理すなわち倫理は人が他者と出会う際に同時に発生する。
世の中の政治には、容量の問題で誰をも受け入れることの許されない類のものも多数存在する。
たとえば日本社会では人が1度に恋愛すべき人は1人までであるべきだ、0人でも構わないが2人以上は問題だと考える人が圧倒的に多い。
風土学の視点から見れば、ある場のおもむきに合わないおもむきをもつ人や、上のような政治的力学でそこにいられない人は、どこまでも自分のおもむきと合う場を求めて、自分のおもむきかその場のおもむきか場自体のいずれかを変える必要に迫られる。
たとえば都市のような社会で明らかな社会悪を働いた人はその社会からいったん出され、その社会のおもむきのなんたるかに沿ってそれとどう折り合いをつけるべきかを説諭する場に移される。
もし起きた社会悪がグレーゾーンだった場合は、その社会とはどのような場であるべきかが問い直されることもある。
もしも恋人が1人いる人に恋したら、あきらめるか、その地位を奪うか、政治の方針を変えて2人で相手の恋人になろうとするかを考え選ばなければいけない。

上で最後に挙げた例は、動物にも起きる政治である。
僕は、動物の縄張り争いや生殖にまつわる競争行動は、動物が己の敵を見出す数少ない機会だと考えている。
つまり動物が自分と違う種の生物を食べたり他の生物から食べられる時は、その動物は食べたり食べられたりする相手を敵だとみなしていないと思う。
これはあくまで僕の自論なので、ぜひ生物の認知や行動に関わる専門家の意見を伺いたい(僕と同じような素人の意見は求めていない)。
もしここで述べたことが客観的に間違っていることがわかったら、僕は述べたことを取り下げたい。

人間がなんらかの競争において競争相手の人間をその競争の場から追い出そうとする行為は、上で挙げた動物の数少ない政治的行動に似ているから、人間らしい行為であるよりは動物じみた行動に近いと思う。

人間は確かに哺乳類の一種で、僕は地球上に生まれた一個の生物である。
人間が自分の生理的欲求にしたがう態度をとって何が悪い。
しかし、『風土学序説』を読んでから僕は、自分の人間性をできるだけ自分の生物的な欲求に優先させるべきだと考えるようになった。
だって、なぜ人間にだけは言葉で自分の考えていることが伝わるのだろう。
他の生物は決して僕の考えていることを言っているようにはわかってくれないのに、相手が人間だったら、たとえ部分的にでも、僕の考えが僕の言ったようにその人に伝わるのはなぜだろう。
なぜそんなことができる必要があるのだろう。
僕は本書を読んで、動物とちがって僕の身にはずいぶん大勢の人と大量の物が加勢してるんだなと思うようになった。
発生しながら忘れられ、損なわれながらも堆積し続けてここまですごいことになっている、文明という、先祖たちから僕に受け継がれた僕の半身。
人間にしかない本能から生まれたこの手足を、人間より下等な生物として(その手足であるかのように)扱うことは、僕の知っている倫理とは別のレベルで、ただの理屈として誤っているように感じられる。
しかし、その問題の論理こそが、真の倫理ではないかとも思う。
動物は自身の政治的闘争のために、(ベルク氏が動物身体と呼ぶ)自身の体だけを使う。
人間固有の風物身体は、その闘争を派手にするためにその動物身体から環境へと拡張されたわけではない
僕の体も僕が用いる物も言葉も、僕独りのものじゃない。
これを僕の運命以外のものから傷つけさせないために、僕はそれを理解しない人全員と言葉を交わしてその不理解と戦いたい。
そしてできるだけ多くの仲間と共に出来る限り多くの生物・無生物を手なずけながら、その運命に立ち向かいたい。

風土エクメーネという居場所

人間の居場所には、上で挙げた他にも実に様々な種類がある。
しかしまた風土学の視点から見れば、あらゆる人間について基本的人権を守ろうとする(この世に生まれてきた人を全員生かそうとする理念をもつ)国は、そしてそれに準ずる憲章を掲げるそのすべての居住区は、あらゆる人間のあらゆる種類の居場所の母体として、来る人を拒まず、いる人を追い出さず、今ここにいる+古今東西そこにいた(来るだろう)個々人全員の現実の公倍数を求め実現する義務をもつ。
そして人間の住むこの世界の居住区は本来的にどこもそのような場であるべきだ、とベルク氏は現実の多様性を研究する学者として自然科学的・人間科学的視点に立って主張している。