地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

6 風土学は政治の普遍的原理にあたる論理を示す -6

人間の利害や価値観の不一致が招く人的リスクも喫緊の課題である

風土エクメーネあくまでも理論上の概念である
ある場にいる人全員が風土性という人間の原点に立った人間性を発揮すれば、その中からは誰かにとっての敵たる人間存在が消える。
本書の論理の正当性を地球上にいる全員が認めて行動にうつせば、ここ地球は本当に風土エクメーネになる。
人がみんなそうしたいと思うか、それを実現できるかどうか、は論理の次の話、理性の話になる。
それは本当に政治の範疇に入る話なので、それについて拙ブログでは僕個人の意見を表すに留める。

たとえこの論理を支持する人がいても、それに異を唱える人がいれば論理は世界を覆わず、武力と政治力に秀でた集団が全世界を制する可能性は残り続ける。
人間の本質とその多様性を謳う風土性を提唱するベルク氏自身でさえが、本書の中で「これは(どちらかといえば)例外にあたる」とその論理に逆らうような発言を複数回にわたり行っているし、このような論理を人々が共有するのはやはり夢物語に近いことかもしれない。
日本の法、政、経済を支配している近代思想を受けとめる態度がすなわち現実的な態度だと考える人は、風土学を非現実的な夢物語だと断じるだろう。
そして風土学を、理想を語りながら世界に現在以上の混乱状態をもたらす危険な思想だとみなすだろう。

基本的人権日本国憲法に謳うか」と風土学を支持するかは似た問いである

日本国憲法は、その歴史をたどると日本人の主体的な選択によると言い切っていいか微妙な経緯で、基本的人権を支持している。
それは奇しくも風土学と同じく、そこにいる人全員の人間性を肯定し擁護しようとする態度である。
そして近年、折に触れて自国の憲法基本的人権を含め続けるかどうかを問われている日本人はまさに今、日本という場についてこの風土学の支持いかんと同じことを問われている。
そしてもしもその問いに答えを出すならば、その答えは答える本人である日本人の態度を確立し、それを対外的につまり諸外国の人へもはっきり示すことになる。

自分が世の中の多数派に属し、世の中でうまくやっていけると信じている人は、現行の憲法のような、来るもの拒まずでその世を乱す人を排除する論理を真っ向から否定するその論理を、認めるわけにはいかないだろう。
その「現行の自分たちの世界を守りたい」という信念が本物である場合、その人は自分の命と引き換えにしてもこれに逆らう論理を唱える存在を排除しようとするだろう。

彼らと反対に、

  • 自分は現行の世界(日本社会)と価値観を異にし、それから不当に扱われていると感じている人
  • 今はうまくやっているけれど、いつこの地位から転落するかという不安をもち不慮の失敗で人生が実質的に終わってしまうことを嫌う人
  • 現行の世界(日本社会)自体に(たとえば少子高齢化や天災のような)その存続をゆるがしかねない問題が内在していると考える人
  • 自然科学とそのいかなる価値も否定する姿勢をそのようなものとして理解し支持する人
など、つまり人間の生きる価値的世界の正当性や将来にわたる存続可能性に疑いをもつ人は、基本的人権と同じく人類の子はみな人間として助け合って生きて然るべきだと主張する風土の論理を否定する理由をもたないだろう。
そのような人は、自分のいる日本で現行の基本的人権を謳った憲法が改定されることに反対するかもしれない。

上の両者の態度はどちらも弱腰でありながらも意気地を持って行動しようとする、ごく主体的で人間的な態度である。
前者は他者の異質さを恐れて排除しようとし、後者は他者から異質だとみなされ排除されることを恐れる。
前者は異質な他者と共にいられるように相手と対話することを半ばあきらめ、後者は他者の異質さを自分自身にも認めざるをえないものとして彼らを排除することを初めからあきらめている。
両者の違いは人道的か否かではなく、「今この日本と自分」を成立させている科学的事実と歴史(過去から現在にかけての科学的・人文地理的背景と将来の科学的・人文地理的状況)を現実的につまり具体的に視野に入れているか否かというのが適切である。

僕たちは憲法のあり方を問われる時、憲法とは日本という場が自分たち国民、それ以外の住民、諸外国の人々に近代思想と風土学どちらの論理をもって向かう場であるのか、日本は誰を受け入れ誰を追い出す・追い返す場であるかを明示する文書であることを肝に銘じ、それを選べる立場にいる自分は生涯にわたって日本にいるつもりか・いられるのか、日本の領土内に広がる自分の地理歴史的な半身を今後どう扱っていきたいかという自問と共に、この問いに臨むべきである。

どちらの姿勢をとるとしてもリスクはある。
基本的人権を支持しないという選択は、他国の人を敵に回す覚悟をもって、また日本という国から自分を含む世界中すべての人が敵視される可能性を許すという覚悟をもって採られなければならない。
日本国憲法基本的人権を謳うことをやめた場合、日本の公民の教科書はその経緯と日本の姿勢だけでなく、基本的人権の成立経緯と共に諸外国ではそれがなぜ謳われ、その諸外国と日本は何が異なるのかを明確に説明するべく内容を変えるのであろう。
一方、基本的人権を支持するという選択は、日本という国の同一性が世界中全方位へ放たれる可能性を許すという覚悟をもって採られなければならない。
それを許すことは、いつか日本という言葉がある民族国家を意味しなくなる可能性を許すことにつながる。
ただしその方向性の「今ここ」より根元の側には、人為を超えた物理的・生態学的方向性と既に起こった史実が、(今日のようなヒト化の)人類が絶えるまでその半身として世界に生き残り、その後に生まれる事物や言葉の根幹として大なり小なり作用し続けるだろう。
今日のような国際社会においてその程度は実際の所、改憲してもしなくてもそれほど変わらないと僕は思うが。

自国(たとえば日本)の憲法基本的人権を謳うかどうかという問いは突き詰めると、
自分と自分の子孫は

  • 日本の外の世界中に敵を作ってでも、自分も敵とみなされる可能性があっても、「日本人」という民族の同一性を定めて守っていくこと
  • 誰であっても「日本人」の仲間にはいれるように「日本人」の同一性を限定せず解放しておくこと
  • のどちらを採って(どちらをあきらめることにして)、
  • 「日本人として」誰と共に来たるべきリスク(日本人に歯向かってくる敵)に立ち向かおうと思うか
つまり自分たちにとって誰が(何が)敵にあたると思うか という問いにあたると思う。

ただし、日本(人)の方が誰であっても「日本人」の仲間にはいれるようにと構えていても、相手になる他国(人)が日本(人)を敵だとみなしてきたり、「では仲間になろう」といいながら子分扱いしてくるといった事態は当然起こり得る。
それが嫌なためにもう一方の選択肢を選びたがっている人もいるのではないかと思う。

次の記事で、僕が風土学の視点に照らして日本国憲法基本的人権について考えることを述べる。