地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

7 この世界のルール

国や民族という観点から人間をまとめて扱おうとする態度は人の道からはずれている思う

世界中で平和を支持する人が「人間一人ひとりと知り合って話せば、そこに敵になるような人はいない」と言っている。
風土学の視点から、僕は彼らの意見を支持する。
「国」や「民族」や「そこの人たち」というくくりは、ぜんぜん具体的ではない。
もしも人間を、たとえばあなたを「国」でくくって、つまり「日本人」のように抽象化してとらえてしまったら、そうとらえた人には具体的なその人のことは読み取れなくなってしまう。
その国や民族にとってのあなたのいる意味はその内の1人という数の問題にすぎない。
現実における意味とは客観的事実を手掛かりとした人間の感覚において発生するため、そうとらえた場合あなたがいる意義はその数の増減ほどの意味しかもたなくなるも同然だ。
でも、人間の現実とは本来その対極にある具体性から積み上げてとらえられるべきものだと本書は主張する。
人間性とは言語化できない主語と様々な述語の行き来に意味を見いだすものであるが、国のような枠組みは人の人間性を支えている述語という要素にすぎない。
意味は述語だけにあるのではない。
僕はそのように、他の物事をさしおいても国や民族の同一性を守ろうとすること、その抽象的概念を守ることに優先順位第一位を与える(その内実の多様性を二の次にする)ことは、いかなる時代・地域においても人間性に反すると思う。

科学を信じない人は基本的人権の存在も信じないと思うけど

科学の発達と人権思想の発達は、互いに密接に関係した歴史をもつ(史実については本書やその他の文献にあたってほしい)。
そのどちらもが人類に所与の思想ではなく、人類に所与の風土性から発する「風土」の風性に抗う形で、人の手で掘り出され勝ち取られた尊い思想(論理)だと思う。
個人的に僕のように信仰をもたずに科学を信じる人は、科学と基本的人権を同時に生んだ歴史の流れ(イデオロギー)全体をまるごと受け継ごうとしないと「天を仰ぎ見る生物」人間でいられる資格(その本来もつべき姿勢)を失うと思う。
要するに、ある人が先人から科学の知識や技術は継いで、やはりその先人の経験知から生まれた基本的人権は継がないという態度をとると、その人は結果的に人でなしになると思う。
そのような人でなしに自ら進んでなろうとしている人は、人間の洞察力をある面では大きく上回る科学の洞察力に開眼したかつての人々が、それまではっきり見えなかった絆や身分という壁や枷に立ち向かって基本的人権という概念の成立までこぎ着けた、という歴史とその論理的帰結をまったく理解していないと思う。
ある場で科学がそれ本来の無価値な様態で通用するようになったら、もうそこでは科学を否定するような論理は通用し得ない。
人権思想を否定しながら科学を礼賛し、科学的(自然地理的)視点からとらえるべき国土に住める人類と住めない人類の区別を設けようとするような態度は、本書でベルク氏が「愚かしい科学主義」(p.21)と呼んだ態度そのものである。

僕はいま自分が科学を学ぶことができ西暦18世紀以来の歴史をもつ基本的人権憲法に謳う国に住んでいることを、たとえその経緯が西洋社会のお下がりとしてであれ、人としてありがたい幸せだと思っている。
科学にありがたみを感じ、基本的人権にありがたみを感じないと言う人は、上述したような欧米の歴史を実感していないせいでそう感じるのだと思う。
僕にもそれはまったく実感し得ないが、歴史を学ぶことでそれを理解することはできた。
僕は科学や基本的人権のような近代思想の尊さの所以は実はその内容ではなく、自分を含む人間が自然にもつ思い込みや偏見(「風土」の風性)を問題視し、自ら血を流しながらそれを人間から(自分から)切り離した人々の営み(の過程、その実感)の方にあるのだと思う。
その所以を本当には理解しないままにそれを受け入れ、今の日本に秩序をもたらしていると自負している人たちは、日本人が過去に犯した失敗を真摯に反省しながら、間違った方法(日本人に近代思想の正しさを信じさせ疑わせないこと)で再犯を防ごうと心を砕いている。
でもその間違った方法では、真に自分たちの秩序を築くことは原理的に不可能である。
今日のように科学的思考が浸透した日本でもし、基本的人権を擁護しないという選択がなされた場合、それは日本の体制へ反対する思想を顕在化し、欧米で近代化が起こった際と同様の闘争を招くだろう。
日本人は自力でそれを乗り越えた時に初めて土着の自分の文化を真に客観視する視点を得て、欧米と同レベルで交易に臨める態度を獲得するのだろう。
近代思想に出会いその理不尽に苦しんだ人々のそのような闘争行為を憂えたベルク氏は、人間は近代思想の内容を理解しその発達過程において起きた史実を反省すれば、もうそのような苛烈な手順を経ずとも己の偏見を自覚し、他者を頼んで、人間として健やかに生きるためにはどのようにふるまうべきか、つまり真に自分たちに必要な秩序とは何かを考えられないか、と読者に問うているのだと思う。

p.361 人間存在は反省=熟慮(reflexion)することができる。ということは、辞書のプティ・ロベール(1987版)の定義によると、「ある疑問や問題についてさらに突っ込んで検討するために、思考をその物自体に差し戻す」ことができるということだ。この意味が生まれたのは17世紀のことだ。これは「反省する」reflechirという16世紀に現れた動詞の言い回しである「自己について反省する(se reflechir sur soi)」すなわち瞑想するという表現から生まれた。ラテン語のreflectereのうちにあった最初の着想は、あらたに(re)曲げる(flechir)ということで、それまで前に向かっていたものを後ろに、あるいは自分に向けて方向を変えるという意味だった。これは〈行き来〉としての通態性の考え方と深いところで一致する。通態性では動物身体は技術によって風物身体のうちに外面化され、象徴によってふたたび内面化される。このように熟慮は本質的に人間的なものであり、同時に風土エクメーネ的なものである。

日本語の「反省」がフランス語やラテン語の「反省」とどこまで重なるのか、僕は知らない。
ただ、人が熟慮するということは、自身とその環境とを省み合って行うしか術のない行為だ、それはまた生物のうちで人間に特有の行為だというベルク氏の意見に賛同する。

人間同士で利害が対決したら、言葉を用いて論理の整合をとり、解決を図るべきだと思う

昨今メディアで、日本の憲法から基本的人権をはずして他の概念をすげ替えたり、憲法の理念に日本(人)を壁で囲んで管理するのに与するような解釈を加えよという発言を聞くことがある。
自分の嫌いな人間の存在を気にして自分の居場所に壁をつくろうとする人は、その場の安寧を願う者として現実で相手にすべきリスクを見誤っていると思う。
科学の洞察と歴史の省察から、人間が束になっても歯が立つかどうかという最終的に真なるリスクはもう見えているはずなのに。
そういう嫌な他人を想定しているせいで、もっと他の、もしかすると僕らに友好的な人々をも、半永久的にこの国の仲間から排除してしまってもいいのだろうか?
そういう人は、自分が壁で囲んだ日本がいつまでも存続できると、その日本に自分はいつまでもいられると思っているのだろうか?

憲法基本的人権が謳われていることに不満をもつ人に、本人に聞けたら聞きたい。
あなたがもし、他者から嫌われたくないのなら、それとも子分扱いされたくないのなら、そいつらの論理ごと言い負かして自分の味方に(せめて共存できる仲間に)引き入れてやるくらいの意気地はないのか。
科学と歴史を真摯に問うて己の論理を精査することを怠りながら、相手の論理を理解することを怠りながら、「こちらの論理が通用するようなら苦労はしない」といいわけしながら、子孫にその政治闘争を負わせる恰好で他者との対話の場から引き下がる気か。

以上が僕の意見だ。

政治と倫理の話の最後に

さて、僕個人の主義主張はともかくおいても、あなたが憲法改定問題のような人としての生き方に関わることを考える時はぜひ、「風土」としての論理を使ってみてほしい。

人間は、たとえばあなたは、ある論理を相手(たとえば憲法の場合は他国の人々など)が理解してくれるかどうかと、自分がその論理を信じるかどうかを、同じことであるかのように考えてはいけない。
それは客観的には、つまり神や運命のような視点から見れば「その論理が通用するか否か」の一点を問うまったき一つの問題であるけれど、人間一人ひとりにとってはあくまでもまったく別の、自分の身体性の問題でもある。
自分の視点と相手の視点と客観的な視点とから見たその問題は、1つの問題の3つの側面ではなく、重なった3つの問題である。
その問題の現実的な構図とは、客観的に正しい意味が1つあるのに対してその見方が2つあるのではなく、2つの意義とそれらの共通土台となる客観的事実が1つあるというものだ。
人間にとって、そのような問題においてなにより肝要なことは、より早くまたはより揺るぎない答えを出すことでは決してなく、関係者全員の身体性=人間性=存在意義を損なわないことだ。
客観的な視点から見たと想定したその問題は、仮想現実と呼ぶにふさわしい代物、人間の現実から見れば自分のその現実を構成する要素に過ぎない。
必須要素なのでその理解のために欠くことができないが、それは(客観的である故にもともと無意味な事象であり)現実において解決が目指されるような問題ではない。
たとえばあなたの国の憲法について、あなたは客観的な事実をふまえて、あくまでもあなた自身が主となりその立役者としてふるまう際の問題としてとらえ、考えるべきだ。
当然相手は相手の立場と感覚においてそう考えるべきで、両者は人としてその自他の自省をふまえて対話しようとするべきだ。
たとえば複数の国や民族が関わる問題について地政学の視点はその客観的な理解のために有効だが、その是非の判断を下すためには無効である。
現実の論理とは客観的な真偽ではなく、人間主体からそれをも含んだ是非を問われ、意義をもって成立するものである。