地理学者が哲学に目覚めたら最強だった説

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

8 人間性に焦点をあてて定め、運用するルール

精神的・肉体的なかたよりが問題にならないくらい懐の深い社会作りを目指してはどうか

個人的/社会的な認識の部位のかたよりが、当人の健全なふるまいを阻害し、他者と隔てる。
人間は自他の多様性を尊び自分の人間性を発揮すれば、自ずから争いごとから遠ざかる。
だとしたら、その逆のことを禁じても結果は同じではないか。
人間に物事の自明視と他人の存在の無視を禁ずれば、当たり前にも思えることをすべて不思議がるようにさせれば、戦争だってなくせるかもしれない。
なぜ人類はこのような貧弱な体躯をもって地球上の物事をこれほど強力に取り仕切るようになったのか、なぜその用いる言語全体は多様なのに自分と近くにいる他人とは同じ様式なのか、たとえ様式の異なる言語であってもすべて通訳が可能であるのか。
これらの事実を自明視せず、何事をも何か「として」とらえる人間の癖を特異な生態としてその意味するところを問えば、本書の説く人間性の原点にも合点がいく。
そして自分自身のことすら不思議に思えて来たら、誰だって自分のしていることに夢中なのはその本人だけだと気づけば、きっと人間同士の争いは収束し、その争いに敗れて行き場を失う人もいなくなる。

バカみたいだろうか。
でも科学の信奉者は、それぐらい自我を冷静な目で見られるほどにその科学を広く理解し心から信じるべきだと思う。
そこまで信じられないのに科学を「便利道具」くらいの感覚で利用している人のことを、真の科学の信奉者は、そして子供に公正な常識を説くべき教育者はどう受けとめているのか。
今日、日本で専門的な職や教育を担う場に立つ人たちは、思想の分野で早急に果たすべき「大衆に物事の道理を理解させる(誤解させない)」という責務を負っていると思う。
諸々の専門家は、自分たちが日々専門外の人たちのために提供しているサービスの内実をできる範囲で惜しみなく披露し、専門外の人には認識しがたい事実を見える化する、という形で。
教育者は、万人に自分の出会う世の不思議に拒絶反応を示さない態度を養う、という形で。
人はごく幼い頃から理系向きや文系向きや運動系や文化系その他系といった性向を現してくる。
あらゆる学校と教育者は、個性あるメンバーたちがこの分業社会で言葉と技術を交わし合い支え合っていけるよう、彼ら各自の性向をおさえず、いかに性向の異なる者と共になって共通の目標を達するかという術を教える者として、ベルク氏のまなざしを共有するべきだと思う。
思想には個人を変え、たとえば近代思想が既存の共同体を解体したように、共同体をも内外から変える力が確かにあるのだから。

学問を行うこと、学んだり問うたりすることは人間にとって自然なことだと思う。
たとえば寄付の広告で紹介される途上国の学校に通う子供たちは、生き生きとして見える。
実際どうなのかは知らないけど、学校とは本来そういう場であって然るべきだと思う。
その一方で日本の多くの児童に学校や学級が退屈な場、自発的にカーストのようなルールを備える窮屈な場ととらえられがちなのは、そこで「(客観的に正しいことを)学ぶために問うべきだ」と促されるからではないだろうか。
人間が本来そうであったように、学校で「(主観的な問いを健全に)問うために(客観的に正しいことを)学ぶ」ことを許せば、子供全員が違う問いを発することを容認すれば、日本の学校に本来の意義が戻ってこないだろうか。

拙ブログで一度だけ、和辻氏の『風土』以外の論述を引きたい。

道義の力は迷った後にほんとうに理解せられる。まず生かしてみないでほんとうの生を獲得させようというのは、もともと無理なのです。そんな型にはめるような鍛練は、害こそあれ益はありません。今の青年教育は大概この弊に陥っています。ただ、性格のしっかりした青年は、反抗心によってこの教育の害悪から救われているのです。
すべての芽を培えより)
私はこのことについて一つのモットオを持っています。それは「すべてを生かせよ、一切の芽を培つちかえ」というのです。いわば自然に成長するままに、歪にならないようにして、放任しておこうというのです。そうしてただ、その芽の成長を助ける滋養分だけを、与えようというのです。その成長が自分の希望するような人格を造り上げて行かなくても、それは仕方がありません。それは宿命ですから。人力のいかんともしがたいものですから。しかし私は、その成長が歪になることだけを、非常に恐れています。一切の芽がその当然成長すべきだけ成長しないのは、確かに罪悪です。それは当人の罪であるばかりでなく、また傍にいて救いの手を貸してやらない者も、責めを負わねばなりません。
(上記文中より)
青春の時期に最も努むべきことは、日常生活に自然に存在しているのでないいろいろな刺激を自分に与えて、内に萌えいでた精神的な芽を培養しなくてはならない、という所に集まって来るのです。
これがいわゆる「一般教養」の意味です。
(上記文中より)

自分が自分らしく自然に成長するために「日常生活に自然に存在しているのでないいろいろな刺激」を与える必要がある、というのがポイントである。

一方、今日の日本の義務教育において道徳は教科外活動の道徳から「特別の教科 道徳」という教科へと格上げされ、教科書を用いて教えられるようになった。
2017年8月17日付の北海道新聞より下の記事を紹介する。

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国が検定した教科書の使用が義務付けられ、子供たちを評価しなければならない。
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「あくまで、決められた『正解』に導くための議論にしかならない。子供を自ら答えにたどり着いた気にさせ、実は枠にはめてしまう」
全文はこちら→ <戦後72年 この道の先は>3 動き出した道徳 教科書選び 戸惑う現場:どうしん電子版(北海道新聞)

風土学は、人間が本来、自己実現と文明の創造(本体の心身と共同体の「風土」の合致と双方の健康)を同時に目指すように生まれついており、戦争その他の社会悪はその願望と能力の副産物だという論理を示す。
この論理は、既に存在する(した)人間が善人だろうと悪人だろうとその誰をも否定しないし、論理的にめだって欠けたところもないと思う。
人間が科学を持たなかった時代とは異なり、世界の万物が風性と土性から成ること、その構造とそれぞれの内実がかなり明らかに知れ渡った現在、もはや為政の是非はその効果からではなく論理の正当性によって評価されるべきである。
今日その是非の判断に持ち出されるたとえば景気の良し悪しは数値化できても、世の中の良し悪しは、その民の生きる意義の大小は数値化できない
それは、どうしてもその民一人ひとりに表現されるしか評価する術のない価値観である。
しかし僕らは神や運命のようなものに評価されるために生きているのではなく、自分自身と半身を共有する仲間のために生きている。
僕は宗教を信じていないのでそう思う。
だから僕は、人間の生き方や幸福を客観的に評価することも、そのようなものさしを鑑みた営みも、人間のような特殊な生き方をする者にとっては論理的な観点から見て必要ないと思う。
たとえ国家や民族のような人間を囲う枠組みが人間性の生む必然(的な弊害)だったとしても、その枠に対してさらに客観的なものさしを当てるような真似はまったく余計だと思う。
近代思想のなんたるかを理解した僕たちは、(それぞれ一人の人間として)絶対平和的政治原理を実現するために技術を(その実現手段として)尽くす時代をこの風土学のまなざしをもって切り拓き、その営みをもってこの世界を発展させようと努めるべきである。
自分自身のために。
そのような困難な事業は、戦争を含む現行の公共事業を(対個人の意識調査を実施しなければ評価できないが、総体的には必ずや)意義の面ではるかに上回るはずだし、やってみないとわからないがひょっとすると経済効果の面でもいい線をいくかもしれない。

もし風土学が正しく全世界の人がこれを根拠に戦争をやめられる可能性があるのならば、戦争の抑止力のありかは敵対心の結果たる暴力とそれを助長する武力をいかに抑えるかよりも、人間が集う場で他人への敵対心を増すような行為の論理的矛盾をいかに効果的に説諭するか、それが可能になるよういかに居住区を仕切った上で連ねるか(分煙のような考え方から仕切る必要はあるが、その仕切りは入れ子状に重なり、人類という大枠で統一されるべきである)という問いの中に見つかって然るべきだと思う。