地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

1 偶然でも必然でもなく

この世の原理としての「風土」

環境可能論に則った地理学を元に風土学を研究したベルク氏は、現実においてあらゆる物事が起こる原理を考えた。
近代思想においてそれは偶然と必然の二択だと断じられていた。
ベルク氏はその姿勢を批判しながら、それらの中間を表そうとする。

p.217 …無意味と目的論の中間の道を探ろうとする。そして風土エクメーネの視点も、この道を模索しているのである。
p.352 近代の二元論のためにわたしたちは偶発性を考えることができなくなったのである。有名になったジャック・モノーの著書のタイトルが示しているように、もはや「偶然と必然」(客観的な因果関係の連鎖)しかないのである。そのために人間の実存の存在論的な構造を思考することがとくに困難になっている。

そしてベルク氏は「偶発」という日本語を採用する。

p.352 歴史の偶発性
p.352 風土エクメーネの現実について確認したlgS/lgPの関係とはそういうものなのだ。述語的な世界(lgP)と客観的な宇宙(lgS)の間には、実際の接触、実存的な接触があるということだ。風土エクメーネと歴史はこうして現実のものとなる(実現される)。すでに指摘したように、バランスを保つための装置であるジャイロスコープのように、この関係の通態的な論理そのものを維持しながら、偶然でも必然でもなく、偶発的なものとなるのである。
p.353 実存の存在論的な構造は、動物身体と風物身体の偶発的な組み合わせによって生まれるのである。

注でベルク氏は、偶発性contingenceという語は接触contactと同じ動詞contingoから派生し、「なにかと接触する、なにかと関係をもつ、だれかの手に落ちる、到来するなどの意味を持っている。」(p.353)と説明する。

偶発すなわち偶然による人間主体と何かの接触が、この世を動かしている原理だ、というわけである。

しかしベルク氏はまた、自分のとらえた原理の性質をより具体的に説明してもいる。

p.361 わたしたちの実存と環境の間に、歴史と風土性の個別的な一致のうちに織りあげられた本質的な関係が存在するのは間違いない。そしてそれだからこそ、因果性を土台としながら、、、、、、、、、、、しかし因果性を超えて、、、、、、、、、、、わたしたちは〈反省的な〉存在なのである。
p.116 風土エクメーネとは測定できるものと、同じ尺度で測れないものの二重の次元を、存在論的にあらわにするものである。風土エクメーネの限りのない多様性は、まさにこれによって生まれる。風土エクメーネにおいては、地平の手前と地平の彼方に、つねに同時に複数の、、、真理がある。それは ― これが第一の真理だが ー わたしたちのすべてが、古代の中国の「王」のように、大地に足をつけて、空に頭を向けているからである。物質的な存在であるとともに、、、、、精神的な存在であること、それがまさに人間の条件なのだ。
p.346 ギリシア哲学のソクラテス以前の哲学者たちとほぼ同時代の儒教では、天は「自然」の宇宙的な原則に近い意味で、すべてのものに内在する宇宙的な原則となる傾向を示している。

ベルク氏はこの知識を持ちここまでのことを考えながらなぜ、あの故事を持ち出さなかったのか。
南宋初期の中国の儒学者・胡寅の『読史管見』という古典に記されたというあの有名な言葉を。

人事を尽くして天命を待つ
(原典は人事を尽くして天命をかす)

僕は、「風土」の風性はこの故事の人事、土性は天命を表すと思う。
天命は測定できるものと認識しきれないものでつまり土性と同義、人のなす事はそれとは別の尺度で尽くされるものである。
また人事の先にも元にも常に天命が控えており、人事と天命という矛盾したダブルスタンダードが相即不離となっているのが現実だから。
だから現実は「風土」だ、でもういいんじゃないかと思う。

拙ブログの初めの方で僕は、ベルク氏がミリューとエクメーネという造語にどちらも日本語の「風土」という語を当てたことを「センスある選択だと思う」と述べた。
その理由は、ベルク氏の提唱した「風土」は、近代化の到来する前の日本人が知っていた風土の概念を、その地域性でありその風俗と環境とそれ以上のものを含む自分の生きる場そのものとして、現代の僕たちにも納得し自分でも生きられるよう説明しなおしてくれたと思うからだ。

たとえば、人の願いはかなうこともあるし、かなわないこともある。
願ってもいないことが棚ぼたでかなってしまうこともある。
すごく努力してきた人が餅でのどを詰まらせてうっかり死んでしまうこともある。
そんな現実は、この世は「風土」だ。

と言えると僕は思うのだけれど。
あなたはどう思うだろう?