地理学者が哲学に目覚めたら最強だったんじゃないか

オギュスタン・ベルク著『風土学序説』を紹介します。

初めて読む方へ

はじめまして。

拙ブログのテーマは、日本で2002年に出版された『風土学序説』という本を紹介することです。

この本を書いたオギュスタン・ベルク氏は「地理学は存在論であり存在論は地理学である」というユニークな主張をしました。

存在論とは一言でいうと「〇〇はなぜそこにある(またはいる)のか」についての理論です。
たとえば、ある人はエスカレーターを利用する際にどこに乗るべきか、すなわちその人はなぜそこに乗るべきか。
段のまん中に乗るべきか、右側か、左側か。あるいは手すり部分に寝そべるのがクールだろうか。
その答えは時と場合によって、そして乗る人によって無数にあります。
縁あって地理学者として来日したベルク氏は、思想家・和辻哲郎が示した日本人の世界観を読み解き、人間がそのような問いに答えを出す方法には普遍的な原理があると主張したのです。

人がエスカレーターでどこに乗るべきかは、僕たちにとってそれほど重要な問題ではないと思います。
でも、もしそれがエスカレーターでなく乗り物の優先席だったら。
他にもたとえば、ある人はとある企業の社員のポストに就くべきか、ある建物をある場所に建てるべきか、自分の得たお金を何に使うかなどと、僕たちはこのような(存在論にもとづいた)問いを日々発して判断をし続けています。
もちろんいつも「自分はなぜここにいるのか」という問いを漠然と抱きながら。

地理学は僕たちの環境のあり方を問う学問です。
存在論は僕たち自身を含む様々な者や物の存在意義を問う学問です。
オギュスタン・ベルク氏による「地理学は存在論であり存在論は地理学である」という主張の根拠は、自分の環境のあり方と自分を含むあらゆるモノの存在意義を同列に問おうとする態度にあります。
今日の日本でそのような考え方をする人は少なく、むしろその正反対に自己をとりまく環境を客観視しようとする態度が常識として受け入れられています。
『風土学序説』に著された学説によると、実はその事実が、昨今この社会で強く訴えられている身体性の喪失とそれにまつわる閉塞感の真の原因にあたるのではないか。
拙ブログは、現在活躍中の日本人によるエッセイを参照しながらこの仮説を検証し、ベルク氏の学説の妥当性をあなたの感覚に問うことをめざしています。

『風土学序説』は、地質や地形、気象から社会学や経済学まで幅広い学問を参照しながら世界中の「〇〇はなぜそこにあるのか」を研究する地理学者による、人間の普遍的な世界観に関する本です。
この本は、誰にとっても適切なその答えを教えてくれるわけではありませんが、誰にとっても適切なその答えの出し方を教えてくれると僕は思います。
その原理とは…

それにふさわしいと同時にそこにふさわしいあり方を選ぶことです。

本書のタイトルにある「風土」という日本語は、広くあいまいな意味をもつ言葉です。
その意味するところを限定するために「精神風土」や「気候風土」のように他の言葉を付けて用いられることも多いのですが、要するにこの言葉は何かのそこ独特のあり方という意味をもっていると思います。
もしも上述の問いに原理があるのだとしたらば。
〇〇の〇〇らしいあり方とはどのようなあり方か。
「ここ」はよそとどこが違ってどう「ここらしい」のか。
僕たちはなぜ、認識の対象そのものを認識するのではなくそれの「それらしさ」を認識するのか。
本書『風土学序説』は、史上初めて「らしさ」の発生原理を学術的に問うた本なのです。


拙ブログは、全体で1冊の本のように、ひと連なりの話をする形をとっています。

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